もっと妥協を!――鉄球姫エミリー感想




 ライトノベルはバトルを描く小説だ。一部のラブ中心の作品を除けば、バトルが話の中核にある。対立する両者は己の信じるものを賭けて激突する。そこに妥協はない。
 
 意見の対立が起きた時、現実には話し合って妥協することで解決することが多い。しかしながら、ライトノベルで話し合いで解決する作品は殆どない。『”文学少女”シリーズ』は毎回ヒロイン天野遠子が言葉による説得を試みているので、数少ない例外だと言える。また、『AHEADシリーズ 終わりのクロニクル』は戦後交渉ものなので、話し合いが描かれているのかもしれない(未読)。しかし、そういう作品は極めて少ない。何故なら、話し合って解決してしまったら、バトルが描けないからだ。

 現実でも、話し合いを軽んじる風潮が強まっている。政治の世界で顕著だ。近年の国会は議論の場ではない。議論とは相手の説の良い所を取り入れて落としどころを探ることだが、与党ははなから法案を修正する気などない。与党提出法案なら最初から与党は賛成、野党は反対で、審議は形式的に行っているに過ぎない。法案を機械的に通したり否決したりするだけならば、国会議員など一人で十分ではないか。

 ライトノベルが話し合いによる妥協を描かずにバトルを描くのは、単なるエンターテイメント性の要請にすぎない。にも関わらず、エンターテイメント性の要請はしばしばテーマに影響する。
 バトルものおきまりのパターンでは悪役が「手を組まないか」と持ちかけると、正義のヒーローが断固拒否する。もちろん、貫かねばならぬ主張もあるだろう。しかし、主張の善悪を度外視して、敵対時の態度だけ見れば、「話せば分かる」の犬飼養が悪役で「問答無用」の青年将校が正義として描かれがちだということだ。これではまずい。

 『鉄球姫エミリー』(八薙玉造著、集英社スーパーダッシュ文庫)は一見問答無用の世界を描いた作品である。お互い、敵を全滅させないと身の破滅を招くが故に、交渉の余地はない。戦いは苛烈を極め、容赦なく人が死ぬ。圧倒的迫力のバトルシーンは本作の売りの一つであり、これにより強いエンターテイメント性を獲得している。だが、『鉄球姫エミリー』はバトルを賞賛する作品ではない。むしろ逆だ。物語の序盤で、老騎士マティアスはエミリーに妥協するよう諫言する。エミリーは諫言を受け入れず、バトルが始まる。従って、バトルが壮絶になればなるほど、あり得たはずの妥協の重要性が浮かび上がるようになっているのだ。

 バトルはライトノベルを支える重要な要素だ。だが、それがエンターテイメント性の要請に過ぎないことの自覚なしにバトルを描いてはならない。それがエンターテイメント作者としてのモラルだ。



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