一人称は突っ込まない――賭博者感想




『賭博者』(ドストエフスキー著、原卓也訳、新潮文庫)は『坊ちゃん』と似ている。もちろん、ドイツと日本の話であるから、細部は全く違うのだが、話の骨格部分に以下のような共通点が見られる。
1.無鉄砲な主人公による一人称。
2.主人公の職業が教師。
3.舞台が故郷を遠く離れた温泉地。
4.対立者がキザで嫌味な奴。
5.主人公にはヒロインがわがままに見え、憤慨する。
6.主人公に好意的な老婆が登場する。
7.遺産の話が出てくるが、主人公は金に拘泥しない。
8.主人公が敗北する。
9.作家自らの体験を基に書かれている。
10.一気呵成に書かれたため、文章に勢いがあり、後期に書かれたより精神的な作品(ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、夏目漱石の『こころ』)とは全然違う。

 ことに、10の類似が興味深い。黒澤明氏や宮崎駿氏など、多くのクリエイターに見られることだが、若い頃はシンプルな構造のエンターテイメントを作っていたのが、年を取るに従って、思索的な作風に移行することが多い。だが、それは単なる進化ではない。勢いのあるエンターテイメントも、思索的な作品も、それぞれに価値があるのだ。
 『坊ちゃん』や『七人の侍』や『天空の城ラピュタ』が広範な人気を得ているのに比べ、『賭博者』はあまりに知名度が低すぎるように思う。確かに『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』の重厚さは偉大だ。だが、ヒロインのツンデレっぷりといい、中盤のびっくり展開といい、エンターテイメント性では、『賭博者』の方が上回っているように思うからだ。

 それにしても本作の主人公は中二病が炸裂していて、すこぶるいい感じに駄目だ。「何言ってるの? お願い死んで〜。シランゲンベルグで崖から飛び降りて。」と突っ込みを入れたくなる。だが、本作は一人称で書かれているから、突っ込みの視点は存在しない。主人公は誰かに突っ込みを入れられても自らの考えを改めようとはせず、都合の悪い現実から眼をそむけ続ける。ことに、ポリーナが部屋を走り出るシーンは鮮烈だ。客観的に見ればポリーナの気持ちが分かるだけに、主人公が全然ポリーナの気持ちに気づけないことが痛々しい。
 しかし、と読み終えて、冷静になった私は考える。我々は誰もが一人称の視点で生きており、なかなか自らの行動を省みない。どうして自分が、『賭博者』の主人公とは違うと言い切れるだろうか。ドストエフスキーは本作で、「外国にいるロシア人の一タイプ」を描こうとしたそうだが、『坊ちゃん』が同じような無鉄砲ぶりで空回りしていることからも分かるように、この客観性の欠如に民族は関係ない。主人公の無鉄砲ぶりを笑った後で、ふと自分を省みてうすら寒くなる。そんな小説だ。



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