望む範囲の幸せのために 扉の外II感想
人間はその人が望む範囲の人を幸せにするために行動する。望む範囲が自分一人だったり家族だったり自国民だったり世界全体だったりと変わるだけである。フィクションのキャラクターも同じだ。もちろん、世界滅亡をたくらんでいる奴のように、客観的に誰一人幸福にならないことを目指して行動しているキャラクターも存在する。しかし、そうしたキャラクターも、世界滅亡することで誰かが幸せになるか、当人が相対的に幸福になると(本人が意識しているかは別として)思っているか、あるいは世界中の人を苦しみの多いこの世界から解き放って幸せにしようと思っているのが普通であり、純粋に誰もが不幸になるように行動するキャラクターというのは思いつかない。もし、いたとしてもそれはもはや人ではなく、地震や隕石といった自然災害のような存在なのではないだろうか。
ライトノベルでは、敵対関係が存在し、戦いが発生して物語が進行していくのが普通だ。多くのライトノベルでは、戦いに勝利すること=その人が望む範囲の人を幸せにする という構図になっているため、主人公は最終的には全力で勝利を目指す。『とある魔術の禁書目録』などが典型的だ。こうした小説は読者が勝利によるカタルシスを得られるというメリットがある一方で、登場人物の感情が日常と乖離してしまうというデメリットを持つ。何故なら、読者の多くは日常生活で明確な敵対者を持たないからだ。
『扉の外』はソフィアと名乗る人口知能によって開催されるゲームに、修学旅行に行く途中の高校生達が強制参加させられる小説だ。この小説がユニークなのは、戦いがソフィアに強いられたものであり、「戦いに勝利すること=その人が望む範囲の人を幸せにする」という構図が成り立たないという点だ。『扉の外』でも戦いに勝つと物質的豊かさが得られるため、多くの生徒は勝利を目指す。しかしながら物質的豊かさを得ても必ずしも幸福が得られるわけではない。このねじれにより本作は、極めてシンプルなゲームを戦う小説であるにも関わらず、現実社会の縮図であるかのような複雑さを獲得しているのだ。
「その人が望む範囲の人を幸せにする」べく登場人物達は知恵を絞る。しかし、社会そのものに背を向けても、人の善性を信じようとしても、政治力で誘導しても、暴力に訴えても、結局のところ上手くいかない。社会に対し興味がない一作目の主人公と違い、二作目の主人公は他者との関係について考えている。それだけに、上手く社会を回していくための解決策が見つからないという展開は重苦しい。本当に皆が幸せに生きられるような社会を構築することは不可能なのだろうか。
作者はその答えは示していないが、糸口を示唆している。それは言葉だ。「話せば分かる」というように、自分は皆が幸せに生きられるような社会を築けるとしたら話し合いによるしかないと思っていたが、言葉は争いの火種でもある。そして何より言葉は実体とはずれているから、言葉による伝達は歪みを生んでしまう。
言葉によらずに何かを伝えるには、直接会うしかないから、極めて伝達範囲が限られてしまう。人間は、その人が直接会うくらいの範囲の人の幸せしか実現できないということをわきまえるべきなのかもしれない。実際、「その人が直接会うくらいの範囲の人の幸せ」を実現するだけでもかなり大変なのだから。
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