最後に希望を残すために――扉の外III感想




 パンドラの箱という話がある。パンドラが箱を開けるとあらゆる災いが飛び出し、最後に希望だけが残ったという話だ。私はこの最後に希望が残ったというのは不幸中の幸い、あるいは残り物には福があるみたいな意味なのかと思っていた。だが、『扉の外III』(土橋真二郎著、電撃文庫)を読んで、何故希望が残ったのか腑に落ちた。あらゆる災いをフォローするために希望が残ったのではない。希望を描くためには、その前にあらゆる災いを描くことが必要なのだ。

 絶望的な状況とはどんな状況だろう。感覚的には成功率が10%くらいだろうか。楽観的な人なら0.001%くらいで初めて絶望するだろうし、悲観的な人なら49%くらいでも絶望するかもしれない。範囲を広めに取れば、0%<成功率<50%であることが絶望する時の必要条件である。
 では希望的な状況(という言い方はあまりしないが)はどんな状況か。絶望の反対なのだから、50%<成功率<100%であるように思えるが、そうではない。余裕で成功しそうな時、人は希望を持ったりしない。人が希望を持つのは、絶望と同じく0%<成功率<50%の時だ。絶望的状況が、わずかでも好転する時、人は希望を抱く。だから、希望を描くためには その前に災いが必要なのだ。

 扉の外IIIでは、I,IIに引き続き、これでもかとコミュニケーション不全が描かれる。ゲームによる嫌らしい誘導によって、薄皮をむくように、生徒達が一歩づつ理性を失っていく様はリアルだ。作者は状況と生徒達の反応を精密に計測しながら、徐々に主人公を絶望へと追い込んでいく。
 絶望を描かなくても、楽観的な言葉を書くことは出来る。だが、その言葉は強度が足りない。読者は絶望的状況で、同じ言葉が吐けるとは思わない。一方、絶望を見据え、それでも紡いだ希望の言葉は強い。希望の言葉には論理的裏づけなんてなくて良い。成功率がどんなに低くたって構わない。そんな状況で、そのキャラクターがそう言えるだろうという手ごたえがあれば良い。その言葉は読者の力になる。
 本作は決断主義(特定の主義を選択し、他者と戦う)的作品として始まるが、最後にはポスト決断主義へと到達している。そして「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」に対する回答にもなっているのだ。

 扉の外IIIで感心したのは視点の使い方だ。本作はずっと三人称一元視点で進んでいくので、外から見た主人公が描かれない。それゆえに、主人公が外からの視点を手に入れた後のシーンが美しい。小説においてテーマやストーリーといった骨組みは重要だ。だが、真の価値は素晴らしい細部にあるのではないだろうか。このシーンだけでも扉の外IIIを読む価値は十分にある。



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