十八世紀のシャフト――トリストラム・シャンディ感想




 1759〜1767年の小説なのに今っぽい、というのが『トリストラム・シャンディ』(ローレンス・スターン著、朱牟田夏雄訳、岩波文庫)を読んだ感想である。世界随一の変てこ小説として名高い本作だが、その変さ加減が今風なのだ。
 変には二種類ある。いわく言いがたい変と、言いやすい変だ。例えば、中村九郎氏や穂史賀雅也氏の小説は明らかに変わっているのだが、どう変わっているのか説明するのは難しい。一方、『トリストラム・シャンディ』の変さは人に説明しやすい。「墨絵流し模様の頁が出現したりする。」と言えば、誰もが変さを理解するだろう。そして、この「言いやすい変さ」こそが、今のおたく界でのヒットに欠かさぬ条件である。何故なら、ヒットするためには、おたく内で噂にならねばならないからだ。近年のアニメ制作者は、同じ話を何度も繰り返してみたり、パンツの群れを飛ばしてみたりと、キャッチーな変さを入れて、視聴者の興味を引こうとしている。

 現在のアニメで、最も「言いやすい変さ」を有しているスタジオがシャフトだ。そして、『トリストラム・シャンディ』とシャフトの演出には多くの共通点がある。
トリストラム・シャンディシャフト
真っ黒なページを挿入。黒コマを挿入。(化物語)
変な所で章が変わる。話の途中で次回に続ける。(さよなら絶望先生)
批評家からの反応を紹介する。視聴者からの反応を紹介する。(さよなら絶望先生)

 
 思うに、受容者が多いメディアが爛熟し、受容者が普通の作品では飽き足らなくなってくると、必然的にこういう変の極みみたいな作品が登場するのではないだろうか。今後、新たなフィクションメディアが登場し、爛熟するたびに、このような作品が現れるように思う。
 フィクションが続く限り、『トリストラム・シャンディ』は常にトップランナーであり続けるだろう。



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