ツンデレ以降、萌えを語ることは――アストロ!乙女塾! 感想



 「ツンデレ」という言葉は、萌える原理そのものが定義となっている点で、「眼鏡っ娘」「メイドさん」「委員長」といった既存の萌えカテゴリーとは決定的に異なっている。手品で喩えるなら、「委員長」が人体切断マジック」だとすると、「ツンデレ」は「箱の片側に身を縮こませマジック」と言っているようなものだ。何かに心捕らわれている状態では、己の感情を呼び起こす原理を分析したりはしない。「ツンデレ」とは「ツンツンとデレデレの落差によって心揺さぶられるキャラクター」だということが、知れ渡ってしまった今、ツンデレに萌えることなど可能なのだろうか。それは、種の分かったマジックに驚くようなものではないのか。
 結論から言うと可能だ。何故なら、そもそも「萌える」という用語そのものが、キャラクターを好きな自分を客観視するものだからだ。「○○たん萌え〜」と言う時、そこには狂おしいような情念も、我を忘れた所も感じられない。道に倒れて○○たんの名前を呼び続けたりはしそうにない。感じるのは、「○○を愛好している私」という冷静な視点だ。私は萌えを「メタ化された好き」と定義している。そんな時代に、如何に萌えを語ればよいのだろう。

 この難題にいち早く取り組んだのが佐藤ケイ氏だ。氏の代表作である『天国に涙はいらない』シリーズでは毎回タイプの違う萌えキャラが登場し、それに対し、天使アブデルがメタ的論評を加える。萌えキャラが読者にメタ的に解されるならば、それを先取りして作中でやってしまえという訳だ。この姿勢をさらに徹底させたのが、『ロボット妹』だ。主人公岩鉄巌男が、ロボット「もえみちゃん一号」に搭乗し、「袖引っ張り」などの必殺技を駆使して闘うという設定は、萌えがキャラクターの外見とパターンの組み合わせによって成立してしまうことをあまりにも明白にさらけ出した。本書には、ライトノベルとしては珍しく、注がついており、その点でもメタを意識していた。

 このような前史を経て登場したのが本田透氏の『アストロ!乙女塾!』だ。本書では表紙や口絵で萌える姿をさらしている主人公ヒカルが実は男だという点で、『ロボット妹』の萌えが外見に誘発されているという主張を継承しているが、より重要なのは、本文中にコラムが挿入されている点だ。『ロボット妹』では注の解説が巻末にまとめてされていたのに対し、本書では、本文を分断する形で囲み記事として掲載されている。読者は物語に没頭できないが、それで良いのだ。何故なら、大半の読者は既に萌え小説を寝食を忘れて読んでなどおらず、「おっ、これは普段冷たい不良が子猫にミルクをあげることで意外性を出すパターンだな。またベタなネタを。」などと分析しながら読んでいるからだ。ならば、そこに作者自らそれは「振り子の論理」だとコラムで説明しても、読者の感情の流れを遮るどころか、まさにタイムリーな話題提供となるのだ。

 このような状況下で、作者が取りうる道は三つしかない。読者がパターンに反応しているに過ぎないことを覚悟の上で、プロの仕事として「萌え」を書く道。佐藤氏や本田氏のように、先回りしてメタ的現状を指摘する道。そしてまだ誰にも書かれていない、新たな萌えを追い求める道だ。萌えの幸せな時代は既に終わりを告げた。残されたのは荒野へと至る道だけだ。


追記:萌えのこのような特性については、既に東浩紀氏周辺の人(佐藤心氏?)が萌えとネタの二重構造として大方指摘済みらしい。ぐはあ。



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