悪もなく正義もなくただ阿呆のみが――有頂天家族感想




 森見登美彦氏の小説には悪者が登場しない。『太陽の塔』しかり、『四畳半神話体系』しかり、『夜は短し恋せよ乙女』しかり。
 だが、『有頂天家族』(幻冬舎)には初めて悪者が登場する。悪によって迫る危機に立てよ下鴨一家! という展開はスリリングで、引き込まれる。しかし、読み終わってみると、何が善で、何が悪なのか、分からなくなってくる。

 例えば、「金曜倶楽部」は忘年会で毎年狸鍋を食うので、狸から蛇蝎のごとく嫌われている。「金曜倶楽部」会員の人間達は悪だろうか。牛や豚を食うのは良いのなら、狸を食っても悪ということはあるまい。いやいや、この小説においては、狸は人語を操る知的生物なのだから、食うのは倫理的にまずかろう。特に、そのことを知っていて食った弁天は悪の名に相応しい。狸たる主人公矢三郎に対しても、「食べちゃいたいほど好きなのだもの」などとしれっとしており、何たる冷血ぶり! と思いきや、矢二郎や海星の話が積み重なっていくと、とても単純な悪とは言えなくなる。「食べちゃいたいほど好きなのだもの」や「だって私は人間だもの」という言葉が俄然違った色を帯びてくる。
 では、狸を罠にかける狸は悪だろうか。人間が狸を食うのは自然の摂理でも、狸が狸を陥れるのは道に反していよう。しかし、人間だの狸だの天狗だのといった区別に何の意味があるだろう。人間も狸も天狗も、さかんに恋に落ちてはいがみ合う。その相手が人間でも狸でも天狗でも、想いそのものには変わりがないではないか。

 作者はあらゆる価値観を相対化し、明瞭なる悪を置かず、従って、正義もない。ただ、生命力渦巻く混沌を生き生きと描くことで、生きていることそのものを称える。
 そんな作者が、唯一信を置いているように見える概念、それが「阿呆」である。確かに、阿呆であれば、巨悪足りえない。大きな悪さえ為さなければ、世の中何とか上手く回っていくものだ。
 そこで、最後に、私も阿呆なことを言って、本稿を締めたいと思う。海星激萌え。



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