シナモンはなかなか伝わらない――ベネズエラ・ビター・マイ・スウィート感想




 『ベネズエラ・ビター・マイ・スウィート』(森田季節著、MF文庫J)は不思議な小説だ。多くのライトノベルは、「燃える展開」とか「ヒロインがかわいい」とか「鮮やかなトリック」とか、端的に魅力を語ることができるが、本作の魅力を短く伝えることは難しい。作者は「淡く切ない恋物語」と表現しているが、それでは魅力の一部しか伝わらない。しょうがないので本編冒頭部を引用してみよう。

「焼いたフルーツってずるい味がする」
 二切れ目の焼パイナップルを口に入れる前につぶやく。率直な感想なんだけど、我ながらいまいち要領を得ない表現だ。
「ずるいって何だよ?」
 ほら、広峰には伝わらない。まあ、広峰にわかられる程度というのも悲しいし、これでいいかな。
 ほんのりとシナモンの香りが口に広がる。フルーツは焼かれるとそれまでになかった力を見せてくれる。まるで冴えないメガネの女の子が美容院に行って白鳥になって出てくるみたいに。


 冒頭から文章の切れが凡百の小説とは段違いだ。だが、ここを引用したのは、単に文章の魅力を伝えたいからではない。このシーンには、本作を理解するための重要なヒントが隠されている。それは「大切なことはなかなか伝わらない」ということだ。焼パイナップルの味を正確に他者に伝えるすべを、人間は持っていない。そして、人間にとって真に大切なことは、「割引チケットを持っている」というような他者に正確に伝えられる情報ではなく、人の感情のような、正確には伝えられない情報ではないだろうか。

 本作では「大切なことはなかなか伝わらない」という構図が繰り返し登場する。そもそも、「イケニエビトを殺した人だけがそのことを覚えてる」という設定からしてそうだ。これはイケニエビトという特殊な人だけの話ではない。誰だって、その人のことをちゃんと覚えていてくれるのは、殺すくらい深く関わった人だけなのだ。
 だが、本作の主人公達は、「大切なことはなかなか伝わらない」ことに絶望せず、必死に抗おうとする。「何度でも殺したらいい 何度でも蘇るから」。そう、なかなか伝わらないのなら、何度でも伝えればよいのだ。訊ねればよいのだ。

 もっとも心に残ったのは、挿話的な藤原保のエピソードだ。あの、自分の気持ちすら自分に伝わらないような、コミュニケーションのもどかしさは胸を刺す。だが、これも実際に読まないと伝わらない。

 この小説もまた、深く関わらないと伝わらない。何度でも読み返したらいい。読めば読むだけ色々なものを受け取れるようなそんな小説だ。



トップページに戻る