ライトノベルは何が軽いのか――私の男感想
ライトノベルとは何が軽いのだろうか。
そのことについて考えるのに、パソコンのファイルが参考になる。ファイルを軽くするためには圧縮すればよい。同様に小説を軽くするにも重いものを圧縮すればよい。小説において最も情報量が多く、重いものは人間だ。ライトノベルは人間を徹底的に圧縮する。ツンデレキャラを見よ。無数の側面を持つ人間を「ツンツン」と「デレデレ」のわずかニ要素に圧縮してみせたではないか。ファイルの圧縮と解凍にはLhacaのような解凍ソフトが必要だが、ライトノベル読者にも同様のソフトがデフォルトでインストールされている。ライトノベル読者はツンデレキャラが登場した段階で、特に書いていなくても、台詞を釘宮氏の声に変換するといった解凍(=情報量を増やす)をして楽しむことが出来るのだ。
こういうことを書くと、「いや、ライトノベルにも複雑な人間は登場する。」と反論する人が現れる。だが、私は「人間が書けていない」とライトノベルを非難しているのではない。例えば、ヴォルテールの『カンディード』では人間が徹底的にぺなぺなに軽く描かれ、あっさりと人が死ぬ。このように人間を軽く書くことでヴォルテールは個々人がゴミのような価値しか持たない世界をシニカルに描き出した。
前置きが長くなったが『私の男』(桜庭一樹著、文藝春秋)である。この小説はとにかく人間が重い。複雑だ。例えば淳悟。暴力性を持ちながら穏やかで、花のことを蹂躙する一方でひどく献身的で、非人間的なようでいて重い罪の意識を抱えていて、ひどく老成していながら子供のようでもある。しかしながら、多重人格的なわけではなく、一つの人格としてそれらの要素が有機的に絡み合っている。
花の淳悟に対する気持ちもそうだ。愛しくて憎くて飽いていて離れがたくて誇らしくて恥じていて私自身でありながら他者である。私の男。
淳悟と花は親子という縦の関係でありながら、男女という横の関係でもある。それ故に、二人の関係には、人間の持ちうるありとあらゆる感情が凝縮されている。普通の人間はここまで複雑ではない。重くない。脇役の小町ぐらいが普通の人間の重さではないか。おそらく桜庭氏は普通の人間のリアリティではなく、人間の重みの極北を描こうとして、この小説を書いたのではないか。
大切なのは重さではない。軽くするのか、重くするのか、あるいは実在の人間の重さに近づけるのか。戦略と徹底、覚悟が必要だ。
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