小説は偶然が描けない――ヤクザガール・ミサイルハート感想



 小説、漫画、アニメで起きる出来事に偶然はない。全ては作者による選択かストーリー上の必然だ。もちろん、サイコロを振って展開を決めたりすれば、無理やり小説に偶然の要素を持ち込むことはできる。例えば、噂によると、『魔法先生ネギま!』のまほら武道会の組み合わせはくじを用いて決めたらしく、これは偶然の要素が混入した珍しい例だといえる。しかしながら、偶然の要素を導入したことで、どのようなメリットがあったのかは不明だ。トーナメント戦において、主人公ばかりが強敵と戦いまくるという不自然さが解消されたことがメリットといえばメリットだが、あまり本質的な問題だとは思えない。また、主人公ネギの決勝の相手はあらかじめ決まっていただろうから、ストーリーの本筋に関しては偶然ではなく作者の選択によって決定されている。
 何故小説、漫画、アニメに偶然の要素が積極的に導入されないのか。それはこれらのメディアは作者が自分の思い通りに作ることで作品が面白くなるという思想に基づいているからだ。
 一方、実写作品では、作品に偶然の要素が大きく混入する。監督は天候をコントロールできないから、当初の予定では晴れのシーンが雨に変わったりする。それによって監督が着想を得て、ストーリーが大きく変わることもあるらしい。

『ヤクザガール・ミサイルハート』(元長柾木著、ゼータ文庫)は斬りまくり殺しまくりのバトル小説なのだが(こんなに斬りまくってるのに何で刀が斬れなくならないんだ!)、物語の軸には常にヒロイン榊塚アカリとヒーローのアドルファス・クーリッジの思想対立がある。未来は必然だと主張するアカリに対し、アドルファスはアカリに未来を選択させようと奔走する。しかし最終盤でアドルファスは偶然によって決まる勝負を強いられる。考えてみれば、アカリとアドルファスが出会ったのも偶然だ。本作では重要な場面で偶然が未来を左右する。それは現実においても同様だ。
 日々の生活において、偶然によって未来が決まることは少なく、せいぜい宝くじや競馬などの賭け事ぐらいだ。一方で、人生の転機となるような重大事は偶然に左右されている。人と人の出会いや何かに興味を持つきっかけは、当人の選択でも必然でもなく、単なる偶然であることが多い。命を失うような事件、事故に巻き込まれるのも偶然だ。人はこつこつと選択を積み重ねてきても、ささいな偶然によって大きく未来を狂わされてしまう。
 このように、偶然は人の一生に大きく関わってくる。しかしながら、小説は偶然を描けない。
 もちろん、作中における出来事が偶然であると記述することは可能であり、また、多くの小説に偶然の出来事は登場するが、読者はそれが作者の選択によるものであることを知っている。読者は偶然を文字通りの偶然と受け取ることはできない。『ヤクザガール・ミサイルハート』はそのことを鮮やかにあぶりだす。

 漫画やアニメの世界を描写した「漫画・アニメ的リアリズム」に基づく小説においては、偶然の要素が存在しないことは描写対象と共通している。一方、「自然主義的リアリズム」の立場に立つ小説も同じく偶然の要素を持たないが、描写対象である現実世界は偶然に満ちている。もし、現実の正確な写し絵たる小説を書こうとするならば、偶然の要素を如何にして小説に導入するかを考えなくてはならないだろう。



トップページに戻る