無駄な歯車を巡る思想闘争――容疑者Xの献身感想
(本稿は『容疑者Xの献身』の抽象的ネタばれを含みます。)
『容疑者Xの献身』(東野圭吾著、文春文庫)について語るなら、誰もがあの鮮やかなトリックについて言及するだろう。前例の無いトリックであることはもちろん、真相が明かされるまで、何がトリックなのか分からない点や、トリックのためのトリックになっていない点など、賞賛すべき点は多い。また、石神の「深い愛情」も確かに印象深い。『とある飛行士の追憶』でも使われていた、天秤の片方に重いものを載せることで、もう片側の想いの強さを示す手法がばっちり決まっている。
だが、私が読後最も強く思ったのは別のことだ。それは、「湯川。お前は一体何がしたいんだ! 」ということだ。その疑問に対し、湯川は自らの行動の理由をこう語っている。
「彼がどれほどあなたを愛し、人生のすべてを賭けたのかを伝えなければ、あまりにも彼が報われないと思うからです。彼の本意ではないだろうけど、あなたが何も知らないままだというのは、僕には耐えられない」
私は、湯川が石神のことを思ってやったと思っていたので、湯川の行動が理解できなかった。だが、これを読むと、石神のためではなく、湯川自身が耐えられないからやったと言っている。この箇所を読んで、疑問が解けた。この小説は、湯川と石神の思想闘争なのだ。
「この世に無駄な歯車なんかないし、その使い道を決められるのは歯車自身だけだ」
湯川が石神に語ったこの言葉が示唆的だ。湯川から見れば、あらゆる人間は歯車として社会とつながっている。「人間にとって重要なのは他者との関係性」であるというのが、現時点での湯川の考えである。それは彼の実験から真理を導くという帰納法的スタイルとも合致している。
一方、演繹法的研究スタイルをとる石神にとって重要なのは自分の頭の中だ。であるが故に、石神は自身が社会の歯車から外れても何ら不都合はないと考え、あのような行為を行った。
湯川的思想の人から見れば、湯川の行為は友人思いであり、ラストもある意味ハッピーエンドである。一方、石神的思想の人から見れば、湯川の行為は傲慢な思想の押し付けであり、ひどい終わり方に見えるだろう。
湯川があのような行動を取ったのは、社会正義のためでも、石神のためを思った訳でも、石神の行為が許せなかったためでもなく、石神の思想を否定したかったからではないだろうか。それは湯川自身にも石神的なところがあり、石神のようになってしまうことを恐れているからかもしれない。そう考えると湯川の行為にも納得がいく。
動機はどうあれ、二人の関係だけを見れば、湯川が一方的に石神の思想を否定しようとしており、湯川が傲慢であることは否めない。(二人以外のことも勘案すれば、石神の方がより傲慢だが)。ただし、両者の思想がぶつかった場合、勝つのは湯川的思想であることを描いているのは鋭い。自分一人で闘っている石神に対し、湯川は他者を使って攻撃できるからだ。『DEATH NOTE』の月vsLが同じ構図であることを本田透氏が指摘している。
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