ブギーポップ・イン・ザ・ミラー 「パンドラ」の方が早いぜという指摘は有効か?――ゼロ年代の想像力第五回感想
SFマガジンの連載『ゼロ年代の想像力「失われた10年」の向こう側』(宇野常寛)の第5回『宮藤官九郎はなぜ「地名」にこだわるのか』を読んだ。この連載は前回までセカイ系批判をしていて、今回からセカイ系にとって代わった決断主義の批判をするのかと思っていたら、そこのところはすっとばしていきなりポスト決断主義の話になったのだった。決断主義は論じるまでもなく駄目だということだろうか。で、ポスト決断主義の第一の例として宮藤官九郎論が展開されたのだが、これがなかなか面白かった。宮藤作品の地名に着目し、『マンハッタンラブストーリー』と『タイガー&ドラゴン』の間の断層を指摘する手法は鮮やかだ。だが、2002年の『木更津キャッツアイ』がポスト決断主義の先駆けであるという筆者の主張には異論がある。筆者が『木更津キャッツアイ』の優れた点として指摘した特徴は、1998年の『ブギーポップ・イン・ザ・ミラー 「パンドラ」』(上遠野浩平著、電撃文庫)にも当てはまるからだ。
上遠野浩平はブギーポップシリーズで徹底して郊外を書き続けてきた作家だ。宇野氏は宮藤官九郎や『木更津キャッツアイ』の特徴として
1)「別に歴史や社会の仕組みに裏付けられているわけではない、一見、脆弱な共同体」が発生し、それがごく短期間だが確実に人間を支え、そして最後はきっちり消滅する。」
2)「「死」という要素に正しく向き合うことで」郊外の「終わりなき(ゆえに絶望的な)日常」を「終わりある(ゆえに可能性に満ちた)日常」に書き換えた。
の二点を指摘した。そしてこの指摘はそのまま『ブギーポップ・イン・ザ・ミラー 「パンドラ」』にも当てはまる。この評論を読んで、『パンドラ』のすごさを再発見できたほどだ。
ここまでが本稿第一の主張なのだが、第二に、1)、2)の特徴は本当にゼロ年代になって誕生した新しいものなのか、という疑問が生じた。というのも、先日、『三銃士』を読んだ所、まさに1)の特徴を持つ小説だったからだ。おそらく筆者は2)に主に新しさを見出しており、確かに今日のような「郊外」が生じたのは新しい。しかし、読者がフィクションを受容する時、舞台がどこかは本質的ではない。登場人物の感じ方によって「今日の郊外で感じるような絶望」は都市にも農村にも宇宙にも過去にも未来にも出現する。そう考えると、例えば『クリスマス・キャロル』は2)の特徴を持つ小説だと言えまいか。
宇野氏は過去の連載で、過去に同じような主張があっても、時代背景が違えば別物なのだという趣旨のことを書いていたが、同じか違うかは個人の主観の問題である。そして、その主観はその人が何を読んできたかに拠るところが大きい。宇野氏はおそらくここ十年のサブカル系フィクションを多く受容してきたために、『ゼロ年代の想像力』の結論を得たのだろう。私はここ十年のオタク系フィクションを多く受容してきたために、『パンドラ』の方が早いぜ、と主張した。もし、ここ百年のあらゆるジャンルのフィクションをまんべんなく受容してきた人がいたとしたら、別の結論を出すだろう。それはどちらが良いというわけではない。知らないことを語りえぬ以上、どうしようもないことなのだ。
(文中宇野氏を除き敬称略)
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