現実に伏線は存在するか




 先日、『東雲製作所』でgoogle検索をかけてみたところ、ケータイ小説と森博嗣に対する一行反応が見つかった(有難うございます)。それは、現実にも伏線は存在する、という指摘で、しばらく考え込んだ。

 私は「あの出来事はこれの伏線だったのか。」と思うことはない。だが、過去の出来事と起きたばかりの出来事が小説で言うところの伏線とその回収の関係になっていることはある。例えば、周囲の人が自分に隠れてこそこそと密談しているのを目撃し、何だろうと思っていたら、自分のためのサプライズパーティーが開かれた、といった場合、二つの出来事は伏線とその回収であると言えるだろう。
 ただし、私が言いたかったのは、周囲の人が自分に隠れてこそこそと密談しているのを目撃した時に、これは何かの伏線であるとは認識しないだろうということだ。何故なら、現実では、物事の因果関係が不明瞭だからだ。
 小説の場合、視点人物が密談を目撃したら、それは何かの伏線である。もし、その密談が何だったのか最後まで明かされなかったとしたら、それは捨て伏線となり、瑕疵になってしまう。
 一方、現実は捨て伏線だらけだ。誰かと誰かが密談していたら、その内容は九割方死ぬまで分からない。これは小説と現実の大きな違いだ。

 ものすごい勢いで捨て伏線をばらまいてそのまま終わる小説を書くと、小説の新たな可能性が開けるかも知れない。



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