聞く耳を持たない奴ら――ゴリオ爺さん感想




(本稿は『ゴリオ爺さん』の多少のネタばれを含みますが、もろに結末を明かしている新潮文庫カバー裏の紹介文に比べればたいしたネタばれではありません。)

 『ゴリオ爺さん』(バルザック著、平岡篤頼訳、新潮文庫)は序盤は退屈だが、中盤辺りからがぜん面白くなる。主人公ラスティニャックがヴォートランに悪の道に誘われる所などはサスペンス色が強くはらはらするし、ゴリオ爺さんの転落っぷりもすさまじい。
 本作の特徴は会話が多いことだろう。物語の舞台となるヴォーケ館の下宿人を紹介する序盤こそ描写が多いが、中盤以降は、一ページのほとんどが会話という部分も少なくない。だが、「会話は言葉のキャッチボール」という観点で見ると、彼らがしているのは会話ではない。互いにびゅんびゅん豪速球をぶつけ合っているだけだ。ヴォートランもゴリオ爺さんも、ゴリオ爺さんの娘も娘の夫も、ヴォーケ夫人やミショノー嬢といったヴォーケ館の連中も、誰も彼もが、自分の主張だけを滔々とまくし立て、自分に都合の悪い意見には聞く耳を持たない連中ばかりなのだ。
 ゴリオ爺さんはクライマックスで、病気にも関わらず、八ページもぶっ続けで己の不幸をまくし立てる。これはもはや会話ではなく演説である。もし、ゴリオ爺さんがここで二言三言つぶやいただけだったら、涙を誘う場面になっただろうが、延々と訴え続けるものだから、私の中でゴリオ爺さんに対する同情がどんどん減っていき、悲しいおかしみが生じている。バルザックは本作を含む一連の小説群を「人間喜劇」と称していたそうだから、あえて読者を泣かせるようには書かなかったのだろう。
 聞く耳を持たない連中によるバトルロイヤルたる本作において、主要登場人物で唯一聞く耳を持っているのが主人公のラスティニャックだ。ラスティニャックは続編で、勅選貴族院議員伯爵にまで出世するそうだが、それは聞く耳を持っていたからだろう。人は他人の意見を取り入れて自分を変えることなしには成長できないからだ。



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