分からないのが恋――東雲侑子は短編小説をあいしている感想




(本稿は、『東雲侑子は短編小説をあいしている』の抽象的ネタバレを含みます。)

 『東雲侑子は短編小説をあいしている』(森橋ビンゴ著、ファミ通文庫)は恋愛体験小説だ。読み終えた時、あなたは現実の恋と同等の体験をしていることだろう。何故、本作の恋がこれ程真に迫っているのか。それは作者の情報量コントロールによる。

 一人称小説は、語り手の持つ情報量と、読者の持つ情報量が等しくなる小説形式だ。だが、ライトノベルの恋愛小説のほとんどは、「語り手の持つ情報量<読者の持つ情報量」となっている。すなわち、読者はヒロインが語り手を好きなことに気がついているが、語り手は気づいていない。例えばこんな場合だ。

「俺も好きだよ。」
ヒロインは俺の言葉に真っ赤になった。
「いきなり何を言うのよ。」
「いや、俺もプリンが好きだと言っただけだけど。」
「紛らわしいのよ、馬鹿! 」
ヒロインはぷりぷりしながら部屋を出て行った。全く何を怒っているんだ。おかしな奴だな。

 つまり、読者はライトノベル的お約束を知っているのに対し、語り手は知らないため、ヒロインの恋心に気づかない、という構図だ。この構図は、読者が、語り手がヒロインに拒絶されるのではないか、という不安を抱くことなく安心して読めるという利点があるため、多くのライトノベルで採用されている。しかし、良く考えてみると、この構図はごまかしを含んでいる。もし、本当に語り手がヒロインの恋心に気づいていないのなら、ヒロインが真っ赤になったといった、ヒロインが語り手に好意を寄せていることを示すサインにすら気づかないはずだからだ。ヒロインが示す恋愛サインは決して見逃さないのに、そのサインが自分への恋心を意味しているということには気づかないなんて不自然すぎるだろう。

 『東雲侑子は短編小説をあいしている』では、語り手の持つ情報量が、読者の持つ情報量とほとんど等しい。ヒロイン、東雲侑子の内面は、なかなか明らかにならない。読者は語り手同様、東雲侑子の真意を測りかねてやきもきすることになる。自分に自信がもてない語り手の葛藤に親近感を感じ、胸が苦しくなる。
 そしてこの小説の本当にすごい所は、東雲侑子の内面がどのような経緯をたどったかについて、つまびらかにすることなく終わらせたことだ。これはミステリーで言えば犯人は明かしたものの、トリックは明かさないまま稿を閉じたようなもので、勇気のいることだ。この決断により、本作はより一層の深みとリアリティを獲得した。
 恋をするとき、人は相手の内面を、行動から推し量るしかない。しかし、恋愛感情は複雑で、なかなか相手の内面は分からず、苦しむことになる。
 分からないのが恋なのだ。



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