華麗じゃないギャツビー――グレート・ギャツビー感想



 (本稿は『グレート・ギャツビー』の抽象的ネタばれを含みます。)

 私は『グレート・ギャツビー』のことを二十歳頃まで『グレート・ギャッピー(gyappi)』だと思い込んでいた。母に「ギャッピーなんてそんな可愛い名前な訳ないでしょ。」と指摘され、ようやく誤りに気づいた。何でもギャツビー氏は豪邸で連夜パーティーを繰り広げているのだという。私の中でギャツビー=アル・カポネみたいな葉巻をくわえたおっさんというイメージが形成された。
 それから十年程が経って、ようやく私は『グレート・ギャツビー』(スコット・フィッツジェラルド著、村上春樹訳)を読んだ。ギャツビーは葉巻をくわえたおっさんではなく、若い男だった。ギャツビーよりはギャッピーという名前の方がふさわしいような萌えキャラだった。そして私だった。もちろん、私は豪邸に住んでいる訳ではないし、彼のような才覚も上昇志向もない。でも、恋に関して不器用で非モテな所とか、友達が少ない所とか、魂の形が似ていて、分かる、分かるぜ!、とのめり込んで読んだ。村上春樹氏はあとがきで本書を「人生で巡り会ったもっとも重要な本」だと言っているが、村上氏もギャツビーのような魂を持っているのかも知れない。

 『グレート・ギャツビー』の優れている所は、語り手をギャツビーに惹かれつつも、もうちょっと上手く生きられんのか、と苦々しくも思っているニックにしたことだろう。この距離感が、ギャツビーの現実が見えていない哀しさを浮かび上がらせ、リリシズムを生んでいる。私は『容疑者Xの献身』を思い出した。あれも同じような魂を持つ男の哀しみを外から描いた作品だからだ。

 『グレート・ギャツビー』は『華麗なるギャツビー』とも訳されているが、村上春樹訳の印象からすると明らかに不適切である。ギャツビーは全く華麗ではない。あえて訳すなら『偉大なギャツビー』だろうが、ちょっと違う。内容的には『小さなギャツビー』と訳しても良いくらいだ。このグレートには、単純な敬意が込められていて上手く日本語には訳せない。やはり『グレート・ギャツビー』と呼ぶしかない。

 訳者あとがきによると、冒頭と結末が「どちらも息を呑むほど素晴らしい、そして定評のある名文」らしいのだが、私はあまり感心しなかった。それよりもニックがギャツビーを最初に見たシーンと最後に見たシーンの対比の美しさに息を呑んだ。美文よりもシンプルな文の方が、より遠くまで伝わるのではないだろうか。

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東雲製作所評論部