キョンは何を選んだのか――劇場版涼宮ハルヒの消失感想



(本稿は『劇場版涼宮ハルヒの消失』のあからさまなネタばれを含みます。)

 今頃になって『劇場版涼宮ハルヒの消失』(石原立也総監督、京都アニメーション)視聴。この作品では主人公キョンが「入部届」と「しおり」に象徴される二つの世界の選択を迫られるのだが、それぞれが何を代表しているかについて、色々な解釈ができるのが面白い。入部届としおりがそれぞれ何を象徴しているかについて、思いつくままに並べると、以下のようになる。

「入部届」 / 「しおり」
1)非日常の世界 / 日常の世界
2)文芸部 / SOS団
3)長門有希 / 涼宮ハルヒ
4)人間長門有希 / 宇宙人長門有希


 『涼宮ハルヒの消失』はひたすらキョンが選択を迫られ続ける映画だ。物語の進展と共に状況が変化しているのでどの時点におけるキョンの選択に着目するかで解釈が変化する。

 キョンはモノローグでSOS団のメンバーがただの人間になった世界を選ぶか、宇宙人未来人超能力者万能神である世界を選ぶか、自問自答する。そこに着目するなら、1)の解釈になる。
 キョンと同じ問題で悩んでいる人は世界中探したって一人もいないだろうが、日常か非日常かという問いはフィクションに携わる人間にとっては切実である。キョンは非日常を選んだが、我々は誰しも日常しか選べない。従って非日常を描いたフィクションは、大なり小なり日常からの逃避という側面を持つ。ハルヒ以降の京都アニメーションは日常と非日常の間を行ったり来たりしている。特に、『中二病でも恋がしたい!』は「日常と非日常」を中心テーマにすえた作品だ。

 長門から文芸部の入部届けを渡され、返したという一連の流れに注目するならば、2)の解釈になる。文芸部かSOS団かという選択は、恋人かコミュニティかという問いに言い換えることができる。悪し様に言うならば一人かハーレムかということだ。
 ハルヒに走って会いに行ったシーンや、病院で目覚めたシーンを見るならば、キョンはハーレムを選んだのではなく、ハルヒを選んだのだ、という解釈も成り立つ。それが3)だ。だが、何にしてもキョンは長門が自分に向ける感情が恋であると気づいていたはずなのに、そうではなく疲れたからだという風に論点をずらしてごまかしてしまっている。
 「恋人−コミュニティ問題」をもう一歩踏み込んで扱っているのが『僕は友達が少ない』だ。サークルクラッシャーになりたくないなんてのはごく一部の人の贅沢な悩みだが、フィクションにおいては頻発する問題だ。この問題に触れずにハーレム状態をだらだら引っ張るなら、やはり逃避の謗りを免れないと思う。

 もう一つ、キョンが長門にかけた言葉に着目して、キョンは人間の長門有希ではなく元の宇宙人の長門有希を選んだのだ、という4)の解釈も成り立つ。これをもってキョンは偽りの長門ではなく本当の長門を肯定したのだ、という向きもあるようだが、私は賛同しかねる。長門は自ら望んで人間になったのだから、おたくがリア充になったり、リア充がおたくになったりするのと同じで、どちらが本当ということはないように思う。「眼鏡はない方が良いぞ。」とか言ってるのと変わらないのではないだろうか。

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