書き続けていくために――ふがいない僕は空を見た感想



(本稿は『ふがいない僕は空を見た』の抽象的ネタばれを含みます。)

 ライトノベルの主人公はなぜおたくではないのだろうか。ヒロインがおたくなのは『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』や『乃木坂春香の秘密』など時々見かけるし、主人公の悪友がおたくなのは『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』や『Tとパンツとイイ話』などわりと良くある。だが、視点人物の主人公がどうしようもないおたくであるのはほとんどない。なぜだろうか。それは、おたくがあまりに生々しい自画像を見せられることに耐えられないからではないだろうか。

 そんなことを考えたのは、連作短編『ふがいない僕は空を見た』(窪美澄著、新潮社)中の『世界ヲ覆う蜘蛛ノ糸』に登場するおたくがあまりに生々しくて身悶えしたからだ。『世界ヲ覆う蜘蛛ノ糸』の語り手たる主婦の里美はかなりどうしようもないおたくなのだが、そのもっさりとした語り口や卑屈な行動に、そこはかとなく身に覚えがあって、ものすごく痛い。おまけに、その夫の慶一郎はおたくでこそないもののマザコンの非コミュで、ダブルで痛苦しい。読後感は胸の中に手を突っ込んでぐっちゃんぐっちゃんかき回されたようだった。
 たいていの小説は登場人物を既存の型に押し込んでしまっている。だが、本作の里美と慶一郎は、圧倒的な生々しさがあって打ちのめされた。多くの作家が無意識の内にセーブをかけてしまっている領域に、窪氏は果敢に踏み込んでいく。平伏するしかない。

 だが、生々しいユニークなキャラクターの魅力で押していくのは限界がある。実際、三作目の『2035年のオーガニズム』にもお兄ちゃんという変人が登場するのだが、『世界ヲ覆う蜘蛛ノ糸』の里美のユニークさと比べると、勉強はできるけど社会性がないという既存の型に沿ったキャラクターになってしまっている。おそらく里美は作者本人か親しい人の投影なのだろう。ここまでキャラクターの内面に踏み込んで書くにはモデルにする人のことをよほど良く知っている必要がある。そして非常に親しくてしかもユニークな人の数は限られている。従って、『世界ヲ覆う蜘蛛ノ糸』のように面白い小説を、何作も書き続けることは不可能なのだ。

 『ふがいない僕は空を見た』を通して読むと、作風が強烈なキャラクターのインパクトによる勝負からストーリーや描写などを含めた総合力での勝負へと大きく変化していることが分かる。『世界ヲ覆う蜘蛛ノ糸』を読んだ時は、こんなのを書いてしまったらもう後が続かないんじゃないかと不安になったが、最後まで読んだら窪氏のこれからも書き続けていくのだという意志を感じて安心した。

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東雲製作所評論部