袋小路のさらに奥へ――袋小路の男感想
(本稿は『袋小路の男』のネタばれを含みます。)
『袋小路の男』(絲山秋子著、講談社文庫)というタイトルを聞くと、袋小路に入り込んだ男の話を想像する。一読して、袋小路に入り込んだ男女の話なのかと思う。だが、もう一回読むと、どうも違うようだと気づく。袋小路に入り込んでいるのは私という女だけなのだ。
この小説はこの一文から始まる。
あなたは、袋小路に住んでいる。つきあたりは別の番地の裏の塀で、猫だけが何の苦もなく往来している。
袋小路は人にとっては袋小路だが、猫にとっては袋小路ではない。
私は「生まれ変わってもあなたはやっぱりあなただろうから、私はあなたの家の猫になる。」という夢を見るが、結局猫にはなれない。一方、「あなたは猫のようにふっとんで逃げていきそうだ。」という一文が示すように、あなたは猫なので、袋小路から自由に出て行くことができる。実際、あなたは小説が二次予選を突破して、まさに袋小路を出ようとしている。
二人の人間の内、片方が袋小路にいて、もう片方が袋小路の外にいるのなら、まだあきらめもつく。だが、本作の場合、二人は同じ場所にいるのに片方にとっては袋小路で、もう片方にとっては袋小路じゃないのだ。そんな残酷なことがあるだろうか。
『袋小路の男』は三重の意味で袋小路な小説だ。まず、私の恋愛という小説の内容が袋小路に入り込んでいる。
次に、二人称という語りが袋小路だ。一人称小説や三人称小説は読者に向かって語られるが、二人称小説はあなたに向かって語られる。あなたが作中人物である場合、その語りは作品内で閉じて、外へ開かれていない。
最後に、作品内の時制が袋小路だ。本作は最後の一シーンだけが現在の出来事で、他は全て過去の出来事が描かれている。過去は変えようがないから、時間上の袋小路に他ならない。
普通の小説は、袋小路から出て行く人を描く。本作は袋小路の中へ中へと入り込んでいくことで中へと突き抜けて、最後は禅の悟りのような境地へと達している。ことにラストシーンの静けさには息を呑んだ。
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東雲製作所評論部