設定で勝利するために――舟を編む感想


 (本稿は「舟を編む」の抽象的なネタバレを含みます。)

 「舟を編む」(三浦しをん著、光文社)は設定の勝利だ。辞書編纂という題材が素晴らしく、何で今まで他の作家が目をつけなかったか不思議なくらいだ。

 第一に、主人公の馬締をはじめとした辞書編纂に関わる人々が感じが良い。一つのことを気長にこつこつと取り組んでいる人というのは私だけでなく多くの日本人が好むことなので、ベストセラーの条件を満たしている。さらに、辞書編纂に関わる人達は浮世離れしているところもあるのでキャラが立っている。
 第二に辞書作成にまつわる薀蓄が面白い。誰もが辞書そのものは知っているが、その作られ方に関しては知らないことが多い。ぬめり感とか意識したことはないが言われてみればなるほどと思わされる。
 第三に、辞書にはあらゆる言葉が含まれているので、自在に隠喩を仕込むことが出来る。小説終盤で出てくる「辞書から『ちしお【血潮・血汐】』が抜けている」というのは後の展開への予兆になっているが、作っているのがファッション誌だったら別のエピソードを一つひねり出さないといけない所だ。
 第四に、言葉を扱うという点で小説と共通点があり、作家にとって共感を持ちやすい題材である。さらに言うならば作っているのが出版社だから取材もしやすいだろう。

 このように、辞書編纂は素晴らしい題材である反面、怖くもある。辞書に関する小説なのに作中の言葉に関する扱いがいい加減だったら台無しだからだ。

「辞書は、言葉の海を渡る舟だ」
「ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮びあがる小さな光を集める。もっともふさわしい言葉で、正確に、思いをだれかに届けるために。」

 本書には思わず涙ぐんでしまうくらい美しいイメージが要所要所に散りばめられている。

 いくら辞書編纂が絶妙の設定だからと言って誰が書いても傑作になる訳ではない。言葉に対する繊細さを持った作家でないと書きえなかっただろう。

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