妹萌え作家は主流文学の夢を見るか――僕の妹は漢字が読める感想
(本稿は『僕の妹は漢字が読める』のネタばれを含みます。)
でたひと→きよし
きよし「おくれちゃうにょ」
どうがサイトみてたら ねぼすけ←だめっこ
いきなりちこくは やばっ
こうえんぬけたら
おなのこごっつん☆
きよし「うあっ」
おなのこ「みゃあっ」
わわわ でんぐりがえっておぱんちゅ きらり☆
『僕の妹は漢字が読める』(かじいたかし著、HJ文庫)は上記のような小説が二十三世紀日本の主流文学となっているという斬新な設定でネットの話題をさらった。この設定、一見荒唐無稽なようで、説得力がある。
二十三世紀日本文学を予想するには、十九世紀の日本文学と現代文学を比較すればよい。十九世紀の作品と言えば、『東海道中膝栗毛』や『南総里見八犬伝』。十九世紀末になってやっと『舞姫』や『たけくらべ』が出てきた頃。夏目漱石は二十世紀作品である。『僕の妹は漢字が読める』では主人公たち普通の二十三世紀人は二十一世紀文学が読めないが、現代人の多くが『南総里見八犬伝』を原文では読めず、『舞姫』も苦しくなりつつあることを考えればもっともである。その一方で、じっくり読めば大意は理解できる程度の違いであり、かつ時代と共に文体が平易な方へ変化していることも分かる。上記の文体は、これらの条件を全て満たしている。作中で『舞姫』が言及されることからも、作者が怜悧な計算の上でこの文体を生み出したことが分かる。
一方で、このような妹萌え作品が主流文学となるかには疑問が残る。文体はともかく、内容的に、現代日本で妹萌え小説を提供しているのはライトノベルだ。では、現在、ライトノベルが主流文学となっていないのは、主流文学者達の偏見が原因なのだろうか。もちろん、それも一因だろうが、ライトノベルの作者や読者もまた、主流文学となることを望んでいないように思う。
本作中で二十一世紀にやって来た主人公が、萌え作品の素晴らしさを声高に訴えるのを読み、いたたまれない思いをしたおたくは、私だけではないだろう。多くのおたくは自らの愛するジャンルが世間からの偏見にさらされることを望んではいないが、満天下に認められたいとも思っていない。おたくのメンタリティは自嘲と不可分なのだ。また、おたくはマイナーであることに価値を見出す人種でもある。『このライトノベルがすごい』における協力者アンケートの結果を見ればそれは明らかだろう。従って、おたく達はもし妹萌え小説が主流文学に祭り上げられそうになったら、必死に抵抗し、それが駄目なら、他のジャンルへと去るだろう。
本作中で描かれた未来。それは萌えおたくにとっての理想郷のようでいて、ある意味、萌えおたくにとって最悪な世界なのだ。
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