名前があってあいまいで――神様のいない日曜日感想
(本稿は『神様のいない日曜日』の結末をもろにばらしています。東雲製作所の感想は、出来るだけ、致命的なネタばれはしないようにしていますが、今回は、結末について論じているので、もろネタばれです。これから読む方は出直して下さい。)
第21回ファンタジア大賞受賞作、『神様のいない日曜日』(入江君人著)は設定が練りこまれていて、謎が多く、解釈しがいのある作品だ。中でも最大の謎は、「何故不死身のはずの「人食い玩具」が死んだのか」だろう。
死の前後を読んで、まず思いつく理由が、「アイに本名を明かしたから」だ。元祖とも言うべき化け物――怪物が登場する『フランケンシュタイン』でも、怪物は最後まで名前が与えられない。(フランケンシュタインというのは、怪物を造った科学者の名前だ。)『人食い玩具』も自分のことを化け物であると言っている。死なない「化け物」だった人食い玩具が、アイに名前を明かすことで、「人」になってしまったが故に死んだ、というのが一つの解釈だ。
もう一つ考えられるのは、人食い玩具が「死にたくねえ」と思ったから、だ。本作には、人食い玩具以外にも、墓守の「傷持ち」という化け物が登場する。二人の共通点の一つは、先に述べた通り、固有の名前で呼ばれていないということだが、もう一つは、行動原理が単純であるということだ。
墓守は本文で「完璧に善良なる人。それはもはや人ではなかった。」と書かれている。人食い玩具もまた、死者を葬るという単純な行動原理で動いている。そのことを、アイは「お父様はすごく厳しくて。正しいとか間違っているとか、駄目だとか駄目じゃないとか、生者と死者とか、人間と化け物とか。・・・・・・そういうの、すごくすっぱりと分けて、真ん中を行っている気がします。」と指摘し、「私には良い事と悪い事を分けるのが、そんなに良い事だとは思えないんです・・・・・・」と疑問を呈している。つまり、すっぱりと分けているのが化け物で、分けないのが人なのではないだろうか。
人食い玩具は、ずっと死ぬ方法を探してきた。だが、アイを前にして、死にたくないと思ってしまった。死にたいけれど死にたくないというようなことを考えるのはもはや化け物ではない。人だ。故に人食い玩具は死んだのではないだろうか。
トップページに戻る
ひとつ前の小説感想に進む