作家地獄としょうむない救い――告白(町田康)感想




 何ちゅう哀しい話や、というのが『告白』(町田康著、中央公論新社)を読んだ感想だ。主人公の熊太郎は頭で思ったことが言葉にならず苦しんでいるが、これは優れた作家になるのに欠かせない資質である。何を言うとんねん。頭で思ったことが上手く言葉にならなかったら、作家には向いとらへんやんけ、と言うかも知れないが、そんなことはない。というのも、頭で思ったことが上手く言葉にできるのなら、それはそもそも、大したことを考えてないのであるし、にも関わらず、考えたことをすらすら文章にできて俺って天才ちゃう? などと思って満足してしまうため、作家として成長しない。一方、上手く言葉にできない作家は、常に、どうすればよりよく思いを表現できるかと考えるが故に、着実に進歩し、遂にはどえらい傑作をものにし得るのである。
 ならば、熊太郎は作家になれば幸福だったのかというと、もちろん、周囲の人々は断然その方が幸福、読者も傑作が読めてハッピーだっただろうが、熊太郎自身はというと、幸福になれたかは怪しい。というのも、いくら傑作をものにしても、あらたな上手く言葉にできないことが沸いてきて、ああ、俺はやっぱり頭で思ったことを上手く言葉にでけへん。何ちゅう駄目な作家や、と一生苦しみ続けるはめになるからである。まさに無間地獄。
 では、そんな作家に救いは残されていないのか、というと一つある。それは”しょうむない”である。作中、熊太郎が生き生きしているのは、弟分の弥五郎としょうむないことをして遊んでいる中盤である。だが、後半、しょうむないの反対の”正味”が口癖の節ちゃんにぼこられて以降、”しょうむない”は殆ど姿を消す。しょうむないが無くなったが故に、熊太郎は悲劇的な結末を迎えたのだ。

 『しょうもないことをしていれば、悲劇的な結末を回避できた』という意見に何か覚えがあるなと思ったら、『虐殺器官』の感想でも同じようなことを書いたのだった。SFと時代小説で見てくれは全然ちゃうねんけど、この二作品、根っこの部分ではよう似てるように思うで。



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