美少女が必要なこれだけの理由――魔法少女育成計画感想




(本稿は『美少女を嫌いなこれだけの理由』と『魔法少女育成計画』の抽象的ネタばれを含みます。)

 遠藤浅蜊氏のデビュー作、『美少女を嫌いなこれだけの理由』(このライトノベルがすごい!文庫)は「ライトノベルでは美少女を出さなくてはならない」という縛りを逆手に取って、「外見が美少女なら、中身がおっさんでも良いんだろ。」と言い放った意欲作だ。ライトノベルのヒロインは、ヤンデレなど、性格的には相当ひどくても許容されるのに、外見は美少女ばかりだ。これは女性を見た目で差別しているということであり、よろしくない。遠藤氏の指摘は、ライトノベル読者にとって痛い点を突いている。だが、『美少女を嫌いなこれだけの理由』を通読して感じたのは、「外見が美少女なら、中身がおっさんでも良いわけではない。」ということだ。それは、せっかく美少女なのに、中身がおっさんだ思うと萎えるというばかりではない。物語において少女とおっさん、即ち若者と年輩者が果たすべき役割は何か、という問題だ。
 物語の快楽の一つに主人公の成長がある。物語のクライマックスでぐんと成長する主人公を見るのは大変気持ちのよいものだ。成長させるためには、主人公は未熟な若者の方が良い。未熟な分、成長の余地が大きいからだ。一方、主人公が成長する物語で年輩者が果たすべき役割は何かというと、主人公を教え導く賢者だ。
 『美少女を嫌いなこれだけの理由』では、クライマックスでヒーロー的立ち位置のヒロイン(中身がおっさんの美少女)がヒロインの助力を得て成長(パワーアップ)するという実に王道の展開を見せるのだが、前述の理由から、成長物語にするなら主人公の中身はおっさんではなく、少年か少女の方が良い。つまり、ライトノベルにおいて、必ず美少女が登場するのは、美少女のイラストをつけないと売れないという外面的理由だけではなく、成長物語にしやすいという内面的理由もあるのだ。

 遠藤氏の二作目、『魔法少女育成計画』は、外面的には美少女でも、内面的には色々にすることで、キャラクターを多様にするという前作のコンセプトを引き継いだ作品だ。一方、キャラクターは成長物語の定番である、「成長する若者と教え導く年輩者」というセオリーに沿って配置されているので、プロットがぐっと洗練されている。
 本作の内容を一言で言うなら魔法少女のバトルロイヤルである。生き残りを考えるなら弱い奴から順に潰して行けば良いのに、血の気が多い奴が多いせいで、強い奴らが直接対決しては退場していく。これは、最終局面で、ある能力を持つ魔法少女が生き残っている必要があるという実際的な理由に加え、成長させるのは、「中身が年輩者の美少女」ではなく、まだ内面的にも力的にも未熟な「中身が少女の美少女」の方がふさわしいという物語構造上の理由があるのだろう。
 二作に共通しているのは、アドレナリンがどばどば出るような、クライマックスにおけるヒロインの劇的な成長だ。遠藤氏には美少女が良く似合う。

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