人生と同じように両義的――猫を抱いて象と泳ぐ感想



(本稿は『猫を抱いて象と泳ぐ』の内容に触れています。)

 『猫を抱いて象と泳ぐ』(小川洋子著、文藝春秋)はあらゆる意味で両義的な小説だ。
 第一に作者の言葉に対する姿勢が両義的だ。
 主人公のリトル・アリョーヒンは上唇と下唇がくっついて生まれた無口なキャラクターだ。
 作中、チェスの名手たるキャリーバック老人は語る。
「口のある者が口を開けば自分のことばかり。自分、自分、自分。一番大事なのはいつだって自分だ。しかし、チェス盤に現れ出ることは、人間の言葉では説明不可能。愚かな口で自分について語るなんて、せっかくのチェス盤に落書きするようなものだ」
 本作は言葉では説明不可能なものを称え、言葉を余計なものとして描きながら、そのことを言葉のみによって成っている小説によって表現しているのだ。

 第二に主人公の大きいものに対する態度が両義的だ。
 リトル・アリョーヒンは愛するチェスの師匠、マスターとの経緯から「大きくなること、それは悲劇である。」というテーゼを深く胸に刻み込んでおり、自分の体も小さいままだ。だが一方で、象のインディラ、マスター、総婦長と大きいものたちを愛している。大きくなりたくないということは成長の忌避だが、恐らくリトル・アリョーヒンは成長に対する憧れも胸に抱いており、それが大きいものへの愛として現れているのではないだろうか。

 第三に主人公のチェスに対する思いが両義的だ。
 マスターから「チェス盤の上では、強いものより、善なるものの方が価値が高い。」という思想を受け取ったリトル・アリョーヒンは相手を打ち倒すためではなく、相手と共に美しい棋譜を作り上げるためにチェスを指す。従って彼は素晴らしい相手とずっとチェスを指し続けたいという願望を持っている。一方で、いたずらにチェスを引き伸ばすことは美しい棋譜を冗漫にしてしまうことであり、これも耐えられない。
 チェスを終わらせたくないのだが終わらせないと美しさが失われてしまう。これは人生を終わらせたくはないがもし死がなくなったら人生がだらけたものになってしまうだろうことと同じだ。

 本作は人生と同じように両義的なのだ。だからこれ程リトル・アリョーヒンの葛藤が心を打つのだろう。

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