そのものが面白ければ何をやっても面白い――偽物語感想




(本稿は『偽物語 かれんビー』のネタばれを含みます。)

 『偽物語』(西尾維新原作、新房昭之監督)の前半エピソード『かれんビー』にはほとんどストーリーが存在しない。メインのストーリーは「阿良々木火憐が熱を出し、治った。」あるいは「貝木泥船が町にやって来て、去っていった。」の一文に収まってしまう。いやいや、暦がひたぎに監禁されたり、忍と和解したりしただろう、と言う人もいるかも知れないが、それらを取り除いても、『かれんビー』のメインストーリーには何ら影響しない。ストーリーとは因果関係が鎖状に連なったものを指すから、『かれんビー』はストーリーというよりエピソードの集積と言った方がしっくりくる。

 物語終盤で、暦は妹の火憐を助けるため、恋人のひたぎと共に、事件の黒幕、貝木と対峙する。普通はここで、貝木と火憐の怪異を治すためのアイテムを巡ってバトルになってりするものだが、本作ではそうならない。貝木は火憐の怪異は時と共に治ると告げて去ってしまう。もし、貝木とバトルになっていれば、「かれんビー」のストーリーは「阿良々木暦は、熱を出した火憐を救うため貝木と戦いアイテムを奪取し、火憐を治した。」となり、ストーリーが厚くなっていた所だ。通常、ストーリーは厚い方が良いとされる。例えば、『コードギアス反逆のルルーシュ』は、限界までストーリー密度を高めることで、作品を面白くしている。それでは、『偽物語』は何故、こんなにストーリーを薄くしているのだろう。それはおそらく西尾氏の、あえて定番を外すという意図と、ストーリーが薄くても十分面白いという自信の現れだろう。

 『戯言シリーズ』を読む限り、西尾氏は、がちがちのプロットを組んで、計算ずくで書くタイプの作家ではない。むしろ、文章そのものが面白いので何を書いても面白いという天才肌の作家だ。こういう作家の作品をメディアミックスするのは難しい。何故なら、最も面白い、『文章そのものの面白さ』がメディアミックスによって消滅してしまうからだ。しかし、『物語シリーズ』はアニメになってもすこぶる面白い。メディアミックスによって失われた『文章そのものの面白さ』を『映像そのものの面白さ』で補っているからだ。
 アニメーション制作担当のシャフトは、映像そのものの面白さでは当代一のアニメスタジオだ。西尾維新×シャフトはまさに最高の組み合わせと言えよう。



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