僕たちは上手く未来を語れない――輪るピングドラム感想




(本稿は『輪るピングドラム』と『魔法少女まどか☆マギカ』のネタばれを含みます。)

 輪るピングドラム(幾原邦彦監督)は過去の話だ。回想シーンを多用しているし、1995年の地下鉄サリン事件が重要なモチーフになっている。その一方で、現在のストーリーは日記の所有者が移ったくらいで中々進展しない。面白さの主眼は、順を追って明かされていく、登場人物達の過去にある。
 最終回、冠葉と晶馬は『運命の乗り換え』を行い、これまでのあらゆることをリセットする。私は登場人物達がどういう未来をつかむのか期待していただけに、肩透かしを食らった。輪るピングドラムでは、
・冠葉と晶馬が最愛の陽毬の死という運命をいかに受け入れるか。
・愛する人を救うためなら何をしても良いか。(冠葉と晶馬の対立点)
という二つの重要なテーマがあったのだが、『運命の乗り換え』によって、二つとも棚上げになってしまった。

 同様に、最終回で主人公の願いによって世界が改変されるアニメに、『魔法少女まどか☆マギカ』がある。だが、まどかと冠葉&晶馬の選択はだいぶ意味合いが異なる。
 第一に、冠葉と晶馬の選択は、愛する人を守りたいという個人的な動機に基づいているのに対し、まどかの選択は公共性を持っている。その結果として、もたらされた世界は、『輪るピングドラム』では物語開始時と等価な世界なのに対し、『魔法少女まどか☆マギカ』では世界が改善している。
 第二に、『輪るピングドラム』では選択を行うのが冠葉と晶馬である必然性がない。陽毬と苹果が運命の乗り換えを行って、冠葉と晶馬が取り残されるという最終回も成立しうる。一方、『魔法少女まどか☆マギカ』では、まどかにしか世界を救うことはできない。

 今まで、『輪るピングドラム』の最終回で、地続きの未来を示さなかったことに批判的な論を展開してきた。だが、見方を変えれば、これは誠実な態度とも言える。何故なら、1995年以降の日本人は、自分たちが向かうべき未来の姿を示せずにいるからだ。『輪るピングドラム』は過去に捕らわれ、未来に進めずにいるここ20年の日本人の正確な写し絵なのだ。
 『輪るピングドラム』では最後に、未来に進むため、分かち合いというキーワードが示された。ここから、どんな具体的未来を築いていくかは、全ての視聴者が個々人で解決すべき課題なのだ。



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