京アニは公共財――アニメ日常感想




 はじめに言っておくと、アニメ『日常』(原作あらゐけいいち、監督石原立也)は素晴らしい作品だ。東雲なのは可愛いし、焼きサバを巡る大げんかは腹を抱えて笑ったし、日常のかけがえのなさを訴える結末も心にしみた。クールダウンのために、定点観測映像を挟むなど、相変わらず演出は意欲的だし、過去の京都アニメーションが使わなかったギャグマンガ的表現を使うなど、新境地を開いた作品と言える。だが、思うのだ。作画枚数かけすぎじゃね? というかそもそも京アニがやる必要なくね? おそらく、この原作なら、フラッシュアニメでも、監督さえ優秀なら、九割くらいの面白さのものが作れると思うのだ。京都アニメーションはリアルな日常芝居に強みのあるスタジオなんだから、リアルな日常芝居を必要とするアニメを作るべきなのではないだろうか。
 エンドレスエイト事件の時も思ったのだが、京都アニメーションは自らの価値を良く理解していないのではないだろうか。エンドレスエイト事件はハルヒの同じストーリーを演出だけ変えて八回も繰り返し放送し、ファンの大ひんしゅくをかった事件だが、もしこれをやったのが京都アニメーションではなかったら、あれほどの非難にはさらされなかったのではないか。いくらでも代わりのきくようなスタジオ、例えば一話につき、1の価値を生み出すスタジオが同じことをした場合、7の価値が失われるだけだが、京都アニメーションのように100の価値を生み出すスタジオがやると、700もの生み出されていたはずの価値が失われる。これはもう社会的損失である。
 もちろん、自由経済において、会社が何を作ろうが自由なのだが、優秀な会社程、公共財としての側面が強くなるように思う。京都アニメーションは日常のEテレでの再放送でも、エピソードにシャッフルをかけて、初めて見た人を置いてきぼりにしたりと、ふるまいがインディーズスタジオっぽく、そこが魅力でもあるのだが、すごいスタジオであるということをもっと自覚してもらいたい。



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