描写が遅けりゃ絵にすれば良いじゃない――のうりん感想



 (本稿は『のうりん2』の内容に触れています。)

 描写は遅い。渡部直己氏の著作に詳しいが、描写は小説を減速させる。例えば「そのロボットは小学生くらいの背丈でだるまのような形状をしていた。全身が青く、顔面と腹部及び手足の先のみが白い。顔の中心には赤い鼻があり、隣接して二つの大きく丸い目が存在する。顔の下半分には大きな口。鼻と口の間に三対のひげがある。顔と胴体の間のくびれには赤い首輪が巻かれ、黄色い鈴が下がっている。」といった描写を読むのはドラえもんの絵を見るより時間がかかる。
 渡部氏は描写の効能を以下のように説いている。

 一体に、ひとつの小説全体に支配的なのは、加速状態である。非常に高い頻度で、そこに描かれた時間よりも、それを読む時間のほうが圧倒的に短いからである。このとき「描写」を介して持ち込まれる減速状態はつまり、ひとつの小説中に流れる物語の時間に、先にみた衝突の効果をもたらし、まさに「時間芸術」と呼ばれる「小説」を読みたどる者の感覚に効果的なメリハリを与えることになるのだ。(『本気で作家になりたければ漱石に学べ!』(太田出版))

 しかし、娯楽の少なかった明治時代の読者に比べ、高速に情報をやり取りすることに慣れた現代の読者は、描写をかったるく感じる傾向が強い。ライトノベルは描写が少ないと言われているのも、かったるさを避けるためだろう。だが、そうは言っても、最低限の描写をしなくては読者は書いてあることをイメージできないし、渡部氏が指摘するように小説が単調になってしまう。どうすれば良いのだろうか。

 現代の小説家は様々な方法でこの難題に挑んできた。石川忠司氏は『現代小説のレッスン』(講談社現代新書)で、「内省や描写のたぐいからそれら特有のあの『かったるさ』を見事消去した上で作中に存在せしめる」スキルが重要であると説き、村上龍氏を始めとする作家達が、いかにこの難題に取り組んでいるかを説明している。

 だが、ここに、最も根源的な手法で「描写かったるい問題」を解決した作家がいる。それが白鳥士郎氏だ。その解決方法とは、「描写が遅けりゃ絵にすれば良いじゃない」というものだ。ライトノベルではしばしばキャラクターの描写をイラストに委ねてしまい、文章では描かないという手法が用いられている。しかし、この場合でも、小説は小説単体で成立しており、イラストはイメージを付加するという役割に留まっていた。白鳥氏の『のうりん』(GA文庫)は一歩進めて、文章とイラストを一体化し、文章で描写をするとテンポを損ねてしまうようなシーンの描写を切符氏のイラストに丸投げしている。例えば、『のうりん2』で森ガールが登場するシーンでは、文章による描写は

「キシャァァァァァァァァッッ!」
野生化しとるがな。

こんなリアルに森にいそうな感じとは、違う。

とあるのみで、具体的な格好に対する描写は皆無だ。その役割は完全にイラストが担っている。もしこの描写を文章でやろうとすると、十行くらいかかり、完全にギャグのテンポが落ちてしまうだろう。

 『のうりん』の場合、イラストはもっぱらギャグのインパクトやキャラクターの魅力の増強に使われている。だが、描写をイラストに任せる手法はさらに多様な使い方が可能だ。例えば、『よつばと!』などの漫画を読むと、風景の細密描写では絶対小説は漫画に勝てないと痛感させられる。ならば、風景描写をイラストに任せてみてはどうだろう。細密な風景描写をイラストでやるには多大な労力がかかり、コストが割に合わないというのなら、写真を入れてみたらどうか。白鳥氏が開拓した技法の先には未開の大地が開けているのだ。

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