何故沈丁花桜は殺さないのか――丘ルトロジック感想




(本稿は『丘ルトロジック 沈丁花桜のカンタータ』のネタばれを含みます。また、二巻目以降を読む前に書いているので、内容が的外れになっている可能性があります。)

 『丘ルトロジック 沈丁花桜のカンタータ』(耳目口司著、角川スニーカー文庫)は傍若無人に振舞う変態集団の話というエッジの効いた話だ。だが、テーマは異端者と集団の葛藤という極めて正統派なものだ。
 「丘研」の連中はどいつもこいつも変人だらけだが、中でも代表、沈丁花桜の唯我独尊ぶりは群を抜く。クライマックスで沈丁花はこう言い放つ。
「大事な物を守るためなら、私は人類を皆殺しにして高らかに歓喜の歌を歌える」

 だが、言葉とは裏腹に、沈丁花は殺さない。あれだけの事件を起こしたら、普通、死者が出ると思うが、怪我人しか出ない。作者は不死者というギミックを用いてまで「丘研」から死を遠ざける。仲間が殺された復讐に、無関係の奴を何人も巻き添えにして、犯人を殺すという展開にした方が、「信念のためなら一切の規範には捕らわれない」というテーマが明確になったはずである。しかし、作者は「信念のためなら一切の規範には捕らわれない。」というテーマに「ただし、正当防衛以外の殺人を除く。」と留保を付けているように見える。その証拠に、あらゆる変態の中で、殺人鬼だけが丘研と敵対し、物語からの退場を余儀なくされてしまったではないか。

 何故作者は殺人だけを例外にしたのだろうか。作者の規範意識の現れかも知れないが、私は、読者の存在が大きいと思う。本作は現時点でも読者を選ぶタイプの作品だが、もしヒロインが平気で人を殺し始めたら、多くの読者は眉をひそめ、二巻を買わないだろう。作者と読者の葛藤が、殺人を肯定しながら殺さないという矛盾に満ちたヒロイン、内部に葛藤を抱え込んだヒロインを生み出したのではないか。この選択はある意味不徹底だが、小説としては深みが増している。葛藤のない人物など薄っぺらで何の面白みもないからだ。

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