誰もが八日目を生きている――八日目の蝉感想
(本稿は『八日目の蝉』のネタばれを含みます。)
「でも、もし、七日で死ぬって決まってるのに死ななかった蝉がいたとしたら、仲間はみんな死んじゃったのに自分だけ生き残っちゃったとしたら」「そのほうがかなしいよね」
『八日目の蝉』(角田光代著、中公文庫)は逃走劇だが逃走劇ではない。
逃走劇は、主人公達が警察などの追っ手から逃げ続ける形式の物語で、主人公達が常に危険にさらされているというスリルが全編を引き締めることから、『レ・ミゼラブル』の昔からしばしば採用されている。逃走劇では、追っ手と追われる者との相克が物語の柱になっているため、主人公達が捕まるか、逃げきるかした所で物語が終わるのが普通だ。
『八日目の蝉』には、小説という残りが何ページくらいあるか分かるメディア特性を利用した見事なミスリードが仕掛けれている。残りが150ページもある段階で希和子が捕まった時は、めちゃくちゃ驚いた。こんなに早く逃走劇が終了してしまって、作者は残りページをどうする気なのか。だが、最後まで読むと、作者はむしろ、逃走劇が終わった後を描くのが主眼なのだと分かる。なにしろ、タイトルの『八日目の蝉』が、七日目で死ぬはずが八日目まで生き延びてしまった蝉、すなわち物語が終わってしまった後の物語を現しているのだから。
エンターテイメントとして見ると、逃走劇を描いた前半の方が面白い。だが、テーマ的にはうんざりするような事実が語られる後半の方が重要だ。何故なら、人生の内、逃走劇のような非日常はほんの一部であり、大部分はうんざりするような日常から成っているからだ。
本作で扱っている事件は、誘拐事件という特殊なものだ。出てくる男女関係も私からは百光年彼方の出来事のようだ。にもかかわらず、本作が心に響くのは、より普遍的な孤独を描いているからだろう。
後半の主人公、秋山恵理菜は三歳で野々宮希和子から引き離される。お母さんの胸に抱かれた幸せな幼年期までが七日目だとしたら、幼子以外の誰もが八日目を生きている。空っぽでも見たくなくても孤独な八日目を生きていくしかないのだ。
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