荒ぶるものの鎮め方――オカルトリック感想




 大間九郎氏は荒ぶるものである。荒ぶるものとは何をするか分からないものであり、大間九郎氏はもの書く人である。従って、大間九郎氏は何を書くのか分からない作家である。
 氏のデビュー作、『ファンダ・メンダ・マウス』は衝撃だった。全く先の読めない展開に破天荒な文章。まさに荒ぶるものが荒ぶるままに書いたような小説である。

 大間氏の新作、『オカルトリック』(このライトノベルがすごい!文庫)は荒ぶるものが(もしくは編集部が)荒ぶるものを鎮めようとした作品である。内容が、オカルト事件を解決する探偵の話であるのが象徴的だ。作者が内なる荒ぶるものを制御して、既存の小説の枠内に収めようと苦心した様が見て取れる。
 荒ぶるものを鎮めるのに最も有効だったのが、ミステリーという形式だ。いくらでも話を発散させていくことが可能なファンタジーやSFと違い、ミステリーは最後に謎解きをして事件を解決させるという強烈な縛りがある。『オカルトリック』でも玉藻がいきなりイソラに土下座を始めるくだりなどは、荒ぶるものの面目躍如だが、ミステリーという縛りがあるため、話が無軌道に発散することなく、じきに話が収束していく。デビュー作と比べ、商業作としての完成度が上がっていることは間違いない。

 しかし、非常に無責任なことを言わせてもらうなら、私は大間氏の荒ぶるところを愛しているので、もっと無軌道に荒ぶっているのを読みたいのである。宮沢賢治の『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』みたいな人類の理解できるすれすれみたいのを書いてくれないかなあ。

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