野尻氏自体がSF――南極点のピアピア動画感想
SF冬の時代と言われてから長い年月がたった。私は全盛期を知らないので、ぴんと来ないのだが、小松崎茂氏の絵などを見ると、かつてのSFの力を想像することができる。当時、多くの人が、科学が明るい未来を作ると信じていた。だが、21世紀になってもエアカーは走っていないし、宇宙開発は遅々として進まない。それどころか、想定外の巨大地震、原発事故が起こり、科学に対する人々の期待は地に堕ちた。
科学だけではない。バブル崩壊以降、日本人そのものの劣化を説く主張が盛んだ。例えば、内田樹氏の「最近の若者は、賢い消費者たれと教え込まれてきたせいで、努力を最小化しようとして、自ら成長の機会を失っている。」という主張などは、一面の真理を突いているだけに、暗澹とした気分にさせられる。
SF作家は、そんな時代に合わせて、科学によって暗黒の未来が訪れる、デストピアSFを書くことも可能だ。だが、SFの本流には、科学、そして人間の力を信じ、明るい未来を描く一派が存在していた。野尻抱介氏も、その流れを受け継ぐ作家だ。
『南極点のピアピア動画』(野尻抱介著、ハヤカワ文庫JA)を読むと、今の世界が希望に満ちたものに感じられる。もちろん、本作はフィクションであり、現実はこんなに上手くはいかないのだろうが、ニコニコ動画という現実のサイトを元にしているので、希望に説得力がある。『南極点のピアピア動画』に登場するピアピア動画のユーザー達は、何の役にも立たないけれど、面白いと思うことに力を結集し、ものすごい成果を上げる。そして皆、幸せそうだ。内田樹氏に、ニコニコ動画みたいに、一文の得にもならないのに、好きなことを熱心にやっている人もいるんですよ、と反論したい。
実際、世界はいくつかの面では確実に良くなっている。幸せの形が多様になっていることもその一つだ。以前は、「結婚して子供を作ってばりばり働いて高給を得る」という幸せの類型があり、多くの人が縛られていた。だが、その束縛は、年と共に薄れてきている。現に、嫁が初音ミクで、めったに本を出さない野尻氏が、実に幸せそうではないか。
SFの重要な使命に、幸せな未来を提示することがある。そういう意味で、野尻氏の書くSFだけがSFなのではない。野尻氏自体がSFなのだ。
トップページに戻る
ひとつ前の小説感想(丘ルトロジック)に進む