陳腐なものは描かないという意志――おおかみこどもの雨と雪感想
(本稿は、『おおかみこどもの雨と雪』の抽象的なネタばれを含みます。)
『おおかみこどもの雨と雪』(細田守監督)は人間とおおかみという異なるものの葛藤を描いた映画だ。人間と異なるものが出会うという構図は映画では定番で、ちょっと思いつくだけでも、『ET』、『となりのトトロ』、『アバター』など沢山ある。「異なるもの」には数々のバリエーションがあり、本作でも、おおかみの代わりに吸血鬼やゾンビや宇宙人を用いても話としては成立する。その中で何故監督はおおかみを選んだのだろうか。野性のおおかみが人間と大きく異なる点は二つある。自然の中で生きている点、そして言葉を話さない点だ。
「もっと早く言うべきだった。いや、見せるべきだった。」おおかみおとこがヒロインの花に正体を明かす際の台詞だ。この台詞に象徴されるように、おおかみは大事なことを言葉では伝えない。本来は言葉をもたないおおかみ故にだが、ここに細田監督の演出意図が見て取れる。言葉はしばしば陳腐化してしまう。監督は、おおかみをモチーフにすることで、言葉を大胆に削っている。
クライマックスシーン。花の言葉に息子の雨は言葉を返さない。あのシーンで、もし雨が何か言葉を発したなら、湿っぽい、手垢にまみれたシーンになってしまっただろう。
監督の陳腐なものを描かないという演出方針は全編にわたって一貫している。キャラクターの表情に関してもそうだ。アニメキャラクターの表情は、実写に比べ、記号的になりがちだ。細田監督は、表情が陳腐になりそうなシーンでは、しばしばキャラクターの表情を隠して、仕草で感情を伝えようとする。逆に、キャラクターの顔をアップで見せる時は、記号的ではない表情を描くという決意を持って描いている。
しばしば省略される言葉や表情と違って、真正面から描かれているのが自然だ。自然は陳腐の対極にあるものとして、映画を背後から支えている。
見終わって、私は反省した。小説を書く際に、自分が実に軽々しく陳腐な言葉を使ってしまっていることに気付かされたからだ。
いかなる芸術であっても、作品を高めているものはただ一つ。作り手の、陳腐ではないものを作ろうとする意志だけなのではないだろうか。
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