現実と奇想のトレードオフ――プリンセス・トヨトミ感想




 (本稿は『プリンセス・トヨトミ』のネタばれを含みます。)

 『プリンセス・トヨトミ』(万城目学著、文藝春秋)は奇想小説である。奇想を小説で描くには二つの方法がある。一つは作品世界そのものを現実世界とは切り離す方法。もう一つは現実の中に奇想を滑りこませる方法だ。『プリンセス・トヨトミ』は後者を採っている。そのため、現実と奇想のすり合わせという難儀な作業を抱え込むことになった。現実性と奇想性はしばしば相容れない。従って、作者はそのつど、どちらを優先するか細かく調整する必要がある。
 例えば、会計検査院だ。作中で会計検査院は、強制執行力を持たない、弱い組織として描かれている。おそらく、現実の会計検査院がそうなのだろう。だが、本作中では、従わなければ罰則を与えられるような、強大な権限を持っていた方が都合が良い。作中の設定では、大阪国が査察に応じた理由が弱いからだ。だが、作者はそうは描かなかった。大阪国以外の部分は、全て現実に限りなく近く描くことで、「もしかして大阪国が存在するのかも」と読者に思わせることを優先したのだろう。

 本作は2008年1月から別冊文藝春秋に連載された。舞台が大阪であることや、テーマから考えて、橋下知事のコストカットに対する抗議の意が込められているのだろう。私も文楽への補助を打ち切るというのはいかがなものかと思う。だが、作中の大阪国を守るために巨額の税金を投入するのは納得いかない。文楽は外部に開かれたものであり、大阪以外の人も観て楽しむことができるが、大阪国は大阪人のためにしかなっていないからだ。それに作中でも描かれていたが、この制度、アウトサイダーにえらく疎外感を与えると思う。ぐっとくるクライマックスを読んで、インサイダーに対する利益という意味では決して下らなくはないということは納得した。だが、私はひねくれ者なので、どうしてもアウトサイダーのことを考えてしまう。

 作中では、巨額に税金が必要な理由として、有事の際の複雑な伝達手段を挙げて説明している。だが、徳川幕府の目があった昔ならともかく、現代なら、防災無線で「ひょうたん16」と放送するとか、いくらでも方法はあるわけで、大阪国がなぜそこに手をつけないのか疑問が残る。だが、どちらが面白いかと聞かれたら、防災無線よりは、作中の奇天烈な伝達方法の方である。作者はどちらが面白いかを勘案した結果、ここでは奇想を優先したのだろう。

 他にも、もし大阪国が税金を使わずに運営されていたら、読者からの共感はより得やすいだろうが、対決相手を内閣からの独立性が高い会計検査院にできないことなど、あらゆる設定が互いに入り組んでおり、あちらを立てればこちらが立たずで悩ましい。奇想をリアリティをもって描くのは大変だ。

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