二人のための媒体――さくらコンタクトrouteA 小河桃子感想



(本稿は『さくらコンタクトrouteA 小河桃子』の抽象的ネタバレを含みます。)

 『さくらコンタクトrouteA 小河桃子』(七月隆文著、このライトノベルがすごい!文庫)を読んでギャルゲー(美少女ゲーム)について考えさせられた。
 
 第一にギャルゲーの文体についてだ。本作はギャルゲー文体で書かれている。ギャルゲーの文体はプレイヤーが主人公になりきってキャラクターの画像を見ながらテキストをパソコン画面上で読むのに最適化したものだ。
1)プレイヤーが主人公になりきるためにモノローグの多い一人称になり、
2)会話の主体が画像で示されるために「○○は言った。」といった話者を示す文章が省略され、
3)文字が読みにくいパソコン画面上で読みやすくするため改行が多い。
本作はこの三つの特徴を全て満たしている。

 これらの特徴の内、1)と3)はそのまま小説に移植しても特に問題はないが、2)は多少問題がある。何故なら小説では会話の主体が画像で示されないからだ。実際、本作でも複数のキャラクターが登場するシーンでちょっと考えないと誰がしゃべっているのか分からない個所があった。
 だが、この文体は登場人物が二人になると本領を発揮する。ものすごい勢いで読めるのだ。

 結局の所、ギャルゲーというのは主人公とヒロイン1対1の関係性を描くものだ。ギャルゲーでは複数の人間との関係性からルート別に1対1の関係性だけを抽出してプレイヤーに提示している。だからその文体も込み入った人間関係や社会性を描くためのものではなく、二人の関係性を描くのに最適化されているのだ。

 もう一つ考えたのが、ギャルゲーのプレイヤーは自由なのかということだ。ギャルゲーをするときプレイヤーは自由に選択肢を選んでいると思っている。しかし実際は多くのプレイヤーが最終的には全てのルートをプレイするので、見方を変えればヒロインに攻略することを強いられているとも言える。
 ギャルゲーの主人公は全てのヒロインを放っておいて外の世界に出て行くことは許されず、複数の二人だけの世界のいずれかに留まらねばならない。本作はその辺の甘さと怖さをストーリーに落とし込んでいる。

 『さくらコンタクト』は元々ギャルゲーとして企画されたそうだが、ライトノベルという異なった媒体で発表されたためにギャルゲーに対する批評的側面を強く持つ作品になった。批評的に見るためには外から見なくてはならないからだ。

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