東雲文芸20――時代小説
吹雪くれない
佐々木つぐは唇に紅を差す。生涯初めての、そして最後の紅を差す。冬の京都の裏長屋。凍える指先に息を吐きかけ、念入りに紅を差す。化粧を終えたつぐは紬の着物を身にまとう。母の形見の着物を。それから仏壇の脇差に目を落とす。父の形見の脇差に。
つぐの父、佐々木房之助が死んだのはつぐが九つの時だった。その日、父は一日中奥座敷に座して動かなかった。
夕刻になって、隣家の近藤兵馬が訪れた。兵馬の姿を認め、つぐは顔をほころばせた。兄弟のいないつぐにとって、兵馬は両親以外で唯一、気の許せる間柄だった。つぐが剣を習いたいと言った時、誰もが女子が剣などと笑うなか、兵馬だけが竹刀を渡して素振りを見てくれた。
「つぐ殿。剣は本来人を殺めるためのもの。そのことを肝に銘じなくてはなりません」
師範代として道場の門下生にするのと同じように、教え諭してくれた。幼いつぐを子供扱いせず、きちんと話を聞いてくれる兵馬に、つぐは懐いていた。
だが、いつものように兵馬に駆け寄ろうとして、つぐは足を止めた。兵馬が見たことのない恐ろしい顔をしていたから。兵馬はつぐを見ることなく、奥座敷へと入って行った。ただならぬ様子に胸がざわめいたつぐは、庭に回って濡れ縁に上がり、障子の隙間から奥座敷を覗き込んだ。
畳二枚を挟んで父と兵馬が座っている。
「藩命でござる。どうか腹を切って下され」
兵馬の言葉に首を振り、父は刀を抜いた。血吹雪が障子を叩いた。その瞬間、つぐの思考は停止した。だから、兵馬の刀が、父の刀もろとも父の体を両断したことを理解したのは、数日の後のことだった。
長屋を出たつぐは 河原町通りを北へ進む。燃えるような夕暮れの空を、見る間に黒雲が覆っていく。
元服したつぐは継之進と名を改めた。父の敵を取るものはお前しかいないのです。つぐに繰り返し説く、母の望みを叶えるために。兵馬の父が営む道場になど通えるはずもなく、継之進は独学で剣を学んだ。庭の柿の木を兵馬に見立て、ひたすら打ち込みを繰り返す。ついに一つの型を会得し、いざ挑まんという時に、兵馬が脱藩した。尊皇攘夷の志を果たすため、京に向かったという。兵馬が脱藩した真の理由は、継之進と戦いたくないが故だと誰かに聞いた。
継之進を育てんがため、無理に無理を重ねた母は、継之進が十八の時分、流行病で逝った。最後までどうか父の敵を、と繰り返しつぶやきながら。継之進は家財道具を売り払うと、家を出た。京へ向かう。兵馬のいる京へ。
三条通りに差し掛かった所で雪が落ちてきた。たちまち本降りになり、町を白く染めていく。家路を急ぐ人の中を、つぐは一人歩を早めずに、三条大橋へと向かう。
何とか京にたどり着いたものの、路銀も尽き、行き倒れていた継之進を泊めてくれた男がいた。大工の佐助。継之進が女と分かっても体に触れてもこない、いくじなしで、とびきり優しい男だった。俺と所帯を持とうと言われた時、つぐは首を横に振っていた。どうしてあの時断ったのか、つぐは今でも分からない。
鴨川の川原には、兵馬が立っていた。月代に髪を生やし、髭を伸ばした姿は、以前とは随分違っていたけれど、一目でつぐは兵馬と知った。兵馬が顔を上げ、顔を歪めた。
「つぐ殿。あなたを斬りたくはない」
つぐは歩を進める。びょうびょうと吹きすさぶ吹雪の中、歩を進める。兵馬の刀に目を遣る。父を屠った長刀。間合いに入ったもの全てを両断する、近藤流抜刀術。
つぐは歩を止めた。どのように言おうか、ずっと考えていた。だが、兵馬の顔を見たら、自然に言葉が出た。
「そなたのことをずっと好いとった。だから……」
つぐが身を寄せる。兵馬がぎこちなく両手を開く。つぐは懐に手を入れた。
脇差を抜く。十五年間、ひたすらこれだけを練習してきた零距離抜刀が兵馬の体を貫く。刀を引き抜く。降る雪が紅く染まる。どうと音を立てて、兵馬の体が倒れる。その死に顔は、つき物が落ちたかのように穏やかだった。
雪が兵馬の体を覆っていく。頬を濡らすのが雪か涙か、つぐには分からなかった。
(09.01)
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