最近の東雲



コンテンツの価値と意志の不在――第2回将棋電王戦第五局感想



 2013年4月20日。第2回将棋電王戦第五局(三浦八段対GPS将棋)を観戦しに六本木のニコファーレに出かけた。ニコファーレが地下にあると知らなかったため通り過ぎたりしたせいもあり、到着したのは10時25分頃。ガラスの扉を開けると、一面黒の内装に白色光のラインが走ったおしゃれな空間だった。目の前には大きな電光パネルの門があり、『第2回将棋電王戦』の文字。左手奥のバーカウンターの上のテレビ画面に中継映像が映っている。会場内に並んだ60程の椅子は満席で20人程が立って画面を見つめている。客の八割方が二十代から三十代の男性だが、中には女性や老人、子供の姿も見られる。中にはテーブルに将棋盤に駒を並べて検討している人もいる。
 序盤のぽんぽん指し手が進む展開が終わった後らしく、中々次の一手が指されない。どちらの手番なのかも分からない。入場料千円と書いてあったはずだが、払わなくて良いのかも分からない。ぼんやりと画面の屋敷九段と矢内女流四段の解説を聞いていると、スタッフの出入りがあって門の奥の扉が開き、中で生の屋敷矢内コンビが話しているのが見えた。ここで初めてこのエントランスでは中のホールで収録した中継映像を流しているのだということが分かった。

 そこで考えたのがコンテンツの価値についてだ。電王戦を見るには三通りの方法がある。インターネットで見る、ニコファーレのエントランスで見る、ニコファーレのホールで見るの三つだ。私のように自宅にインターネット環境がない人を除けば、家でニコニコ動画の中継を見るのは無料だ。エントランスで見るのも無料だが交通費がかかる。そしてホールは入場料千円がかかる。(ニコ動のプレミアム会員なら無料だが。)
 ホールで見るのが最も金がかかる訳だが、ホールも対局が生で見れる訳ではなく、解説者やゲストが生で見れるだけだ。歌なら生と映像ではだいぶ価値が異なるが、解説やトークには生ならではの価値が薄いように思う。解説者やゲストのファンなら目があったりすると嬉しいというような双方向性があるのは生で見るメリットだし、ホール限定のプレゼント企画もあった。また、ホールやエントランスで見る場合、他の人と反応を共有できるというメリットがある。例えばGPS将棋の8四金や8八歩には会場がざわめいたので、そうくるか、という気持ちを共有できた。
 だが、将棋に関して最も価値のあるコンテンツは本来棋譜のはずだ。家でニコニコ動画の中継を見ながらGPS将棋のホームページを参照して検討するのが一番将棋そのものに関する情報量を多く得られるのだが、それが最も安価な視聴スタイルなのだ。
 本質とは異なるコミュニケーションなどの付加価値を得ようとすると金がかかるということは広く見られる現象だ。例えば野球について配球や戦術を探求しようと思ったら球場で見るよりテレビで見る方が適しているが、球場で見る方が金がかかる。コンテンツの価値とは一体何だろうということを考えさせられた。

 所用があったので5時過ぎ、三浦八段やや劣勢の段階でニコファーレをあとにした。外は冷たい雨がいよいよ本格的に降り始めていた。家に戻ってニュースを見て、三浦八段の敗戦を知った。
 会場におけるアンケートでも、ほとんどの人が三浦八段を応援していた。何故皆人間を応援し、人間が負けるとがっかりするのだろうか。それはコンピューターが人間に勝つということが、人間が単なる複雑な機械であり魂など存在しないということを示唆しているからだ。

 今回の対局でGPS将棋には悪手が全くなかった。人間には思いつかないような鬼手を指して勝ったのではなく、人間らしい筋の良い指し回しで勝ったのだ。三浦八段はコンピューターの弱点を突こうとしてあえて6七金の様な一見筋悪な手を指して自ら崩れてしまったように感じたが、かと言って対人間と同じように指せば勝てたかというと疑問だ。将棋は基本的にミスした方が負けるゲームなので全くミスをしないGPS将棋に勝つのは羽生三冠や渡辺竜王、森内名人といえど難しいのではないだろうか。(コンピューター将棋を全て一緒くたに議論している人が多いのだが、GPS将棋以外のソフトは悪手を指しているので人間が勝つことも可能だと思う。)

 問題は膨大な計算によって人間とは別種の知性が立ち現れたのではなく、人間らしい知性が立ち現れたことだ。これは、少なくとも将棋に関しては人間らしい知性というものが、毎秒2.5億手の計算によって再現可能だということを示している。「人間に魂など存在しない」という言説に同意する人も、「人間に意思など存在しない」と言われたらそんなことはないと反論したくなるだろう。しかし、コンピューターに意思が存在せず、もしコンピューターに人間の脳の働きが全て再現可能だとしたら、人間にも意思が存在しないと考えるのが自然だ。これは定義の問題なので、GPS将棋のような複雑なコンピュータープログラムには意思が存在しているのだ、と定義すれば人間にも意思が存在することになる。だが、どちらにしても人間がコンピューターと同種のものであることに変わりはない。そんなことを考えていたら、天気のようにどんよりした気分になったのだった。

(13.04)



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