量は力なり――空色パンデミック感想
(本稿は空色パンデミックのネタばれを含みます。)
『空色パンデミック』(本田誠著、ファミ通文庫)は、空想病という空想によって世界を書き換えてしまう可能性を持った病気のある世界を舞台に、主人公の仲西景がジャスティスなどの敵と戦う話だ。だが、見方を変えると、景たちの日常世界と、ヒロイン結衣の空想の産物たる<教会物語>の世界という二つの世界が正統性をめぐって争う話とも言える。『カードキャプターさくら』と『ツバサクロニクル』のように共通のキャラクターが登場しながら、異なる世界観を持つ作品というのは過去にもあったが、直接世界同士のバトルにした所が、『空色パンデミック』のユニークな所だろう。
このように、世界同士が戦う場合、何が勝敗を分けるのだろう。一見、勝負は景やジャスティスの頑張りによって決しているように見えるが、その裏では、より大きな力が働いている。それは世界の「量」だ。二つの世界が戦う場合、より多くの量が存在する世界の方が、より読者に親しみをもって受け入れられるが故に、正統性を獲得するのだ。そのことを、他の作品を使って検証してみよう。
ケース1:東京大学物語の場合(以下、東京大学物語の激しいネタばれを含みます。)
『東京大学物語』(江川達也著、小学館)は、最後の最後になって、今までの内容が全てヒロイン水野遥の妄想であったことが明かされる。言い換えると、作中では、「ストーリーが現実のものである」という世界観を突如出現した「遥の妄想である」という世界観が倒し、正統性を獲得したことになる。全てが遥の妄想であったのなら、作中、恐るべき色好みっぷりを発揮していた主人公、村上の実像は、未確定であり、実際はものすごく誠実な男かもしれない。だが、そんなことを思っている読者はほとんどおらず、村上は相変わらず読者の中で、作中で描写された通りの奴である。なぜか。それは「ストーリーが現実のもの」として描写された分量が、「遥の妄想である」という描写量に比べて圧倒的に多いからだ。
ケース2:鬼太郎の場合
『ゲゲゲの鬼太郎』は以前に描かれた『墓場鬼太郎』が元になっている。二つの世界はどちらが正統とも言えないはずだが、実際には『ゲゲゲの鬼太郎』の方が正統的地位を占めている。それは、『ゲゲゲの鬼太郎』の方がより多くの読者に読まれ、テレビアニメにもなることで、さらに多くの人に知られたからだ。つまり、世界の正統性を決めるのは、作中での描写量だけではなく、作品自体が流通している「量」も需要な役割を果たすということだ。その点で、現在最も成功を収めた単一の世界観が『聖書』であることは言うまでもない。
以上の検討から言って、『空色パンデミック』においては、描写量の多い「景たちの日常世界」が戦う前から優位に立っていることが分かる。3巻で、劣勢に立たされた敵が、ケース2の流通量を用いて反撃を試みたのは、興味深い試みだと言えよう。
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