無我と独創――天地明察感想
(本稿は、『天地明察』の抽象的ネタばれを含みます。)
『天地明察』(角川書店)は、冲方丁氏にとって大きな転機となる作品だ。本屋大賞と吉川英治文学新人賞をダブル受賞して一気に知名度を得たというだけではなく、初めての歴史小説であるということが大きい。
これまで冲方氏が書いてきたライトノベルやSFでは、作者が一から世界の何もかもを作り上げていた。細部までテーマに沿って造りこまれた設定は、冲方作品の大きな魅力だ。一方、歴史小説は、登場人物の運命があらかじめ決まっており、作者が出来ることは限られている。そして、そのことが作品のテーマと二重写しになっている。
主人公、渋川春海は、作中で一度、大きな誤ちを犯すが、それは自らの思い込みが原因だった。以降、春海は、一切の先入観を排して、天地をありのままに見ようとする。
春海が取り組む正確な暦の作成は、もともと存在している真理に迫るものだ。歴史小説にもまた、登場人物達の真実の姿が存在する。史実であることを裏書きするような「春海は〜している。」という文が印象的だ。冲方氏は、独創を絞り、ありのままの春海達を描き出そうとする。その姿には無我の境地という言葉を思い起こさせる。
春海は、多くの人の力を借りて、偉業を成し遂げる。小説は基本的には一人で書くものだが、歴史小説は、実際に生きた先人達の力を借りることができる。己一人の力で出来ることは限られていると悟ることが、きっと大人になることなのだろう。だが、未だ大人になれていない私には、氏がこのまま『マルドゥック・スクランブル』等で見せた抜群の独創を封印し、完全に歴史小説に移行してしまうとしたら、惜しいと思う。
春海は天文学を用いて遂に、天地を明察する。『天地明察』という題名には、春海の行為のみならず、冲方氏もまた、小説を用いて天地をことごとく明察してやろうという野心的意味が込められているのではないか。氏が今回見せた無我と、他の作品で見せていた独創を高いレベルで融合させた時、必ずや、天地が震えるような傑作が生まれるだろう。
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