悔いないと成長しない――サマーウォーズ感想
(『サマーウォーズ』と『時をかける少女』に関する抽象的なネタばれがあります)
細田守監督作品、『サマーウォーズ』を観た。密度の濃い展開で面白かったのだが、前作『時をかける少女』と比べると何かが足りない。帰りの電車の中でずっと考えていて、やっと気づいた。サマーウォーズでは主人公達が成長しないのだ。
健二や夏希が全く成長しないわけではない。最初は自分に自信が持てなかった健二が後半では勇気を出して世界の危機に立ち向かっている。だが、この成長は単なるレベルアップにすぎない。小さな芋虫が大きな芋虫になったようなものだ。芋虫が蝶になるような、自分自身の根本に関わるような成長を遂げるためには、自分自身の嫌な所と真正面から向き合って、変わらなくちゃと切実に願うような体験が必要だ。サマーウォーズの主人公達にはそれがない。
『時をかける少女』のヒロイン真琴にはそれがあった。真琴は自らの不誠実な行為が千昭の想いを踏みにじっていたことに気づき、「最低だ、私。」とつぶやく。この悔恨故に、真琴は大きく成長するのだ。
一方、『サマーウォーズ』のヒロイン夏希も自分に想いを寄せている後輩に婚約者の振りを頼むという最低なことをする。だが、夏希はそれを深く悔いる機会を与えられない。故に、成長できない。健二も軽々しく世界の危機を招きかねない行為をする。だが、その行為は健二が克服すべき性格と結びついていないので成長には結びつかない。佳主馬は自らが敗れたことを深く悔いるが、これも、佳主馬の性格上の欠陥によって負けたわけではないので、レベルアップの糧にしかならない。(例えば、佳主馬が家族に作戦の説明を頼まれていたのに、人見知りな性格からそれを怠ったせいで負けた、といったストーリーにすれば、成長に結びついただろう。)佳主馬の敗北の原因を作ったキャラはそのことに気づきすらしない。
そんな中、登場人物中唯一真の意味で成長するのが、侘助だ。侘助だけが、自らの行為が招いた結果を突きつけられ、痛切に悔いる。多数の物語が交錯するサマーウォーズにおいて、侘助と栄の物語だけが、切実さを持っている。侘助が引き取られてきたシーンでは落涙した。
ここまで、作者が侘助以外のキャラの根本的成長を描き損ねているという前提で、論を展開した。だが、作者は意図的に成長を描かなかったのかも知れない。すなわち、細田監督を初めとする作者が『時をかける少女』の「自立した個人が根本的成長を遂げる」生き方から、『サマーウォーズ』の「家族というコミュニティに支えられた個人が根本的には成長しない」生き方へと転向したという捉え方も可能だ。そうだとすれば、その試みは成功している。
ファミリーポートレイト感想で書いたように、桜庭一樹氏は結婚を期にそれまでの成長するモデルを放棄し、大人になどなれないという結論へ転向した。細田氏も両作品間で結婚している。結婚すると、「人は成長して自立した大人になるなど無理で、家族に依存しながら生きていくものなのだ。」と悟るものなのだろうか。
サマーウォーズで感心したのはやはり演出だ。朝顔の廊下のシーンでは息を呑んだ。また、親戚が集まった時の微妙な距離感が感じられる細かい仕草等が抜群にリアルだ。実写ではここまでリアルにするのは難しいだろう。細田監督は様々な長所を持っているが、一番の武器は観察力だ。
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