カイジに比肩する面白さ――掏摸感想



 (本稿は『掏摸』の内容に触れています。)

 『掏摸』(中村文則著、河出書房新社)には引きこまれた。私は主に電車の中でしか小説を読まないのだが、本書は自宅でも読み続け、読みきってしまった。非常に面白かったのだが、予想していたイメージと違っていた。『掏摸』は第4回大江健三郎賞受賞作として各国語に翻訳され、LAタイムズ文学賞最終候補作となったことから、難解な純文学なのかと思っていた。だが、実際はばりばりのエンターテイメント小説だった。

 純文学とエンターテイメントの違いに関しては様々な定義があるが、私は「既存のフィクションと似通っていないのが純文学」であると思っている。小説の読者を面白がらせる鉱脈はあらかた掘り尽くされており、読者を面白がらせることに重きを置くなら、既存のフィクションの要素を最良した方が良い。一方、純文学は新たな鉱脈を発掘し、小説の可能性を広げるのが使命だ。

 『掏摸』のストーリーやキャラクター造形は既存のアンダーグラウンドものフィクションの影響を強く受けている。巨悪の造形や巨悪にゲーム的なミッションを課せられる所などは非常にカイジっぽいし、主人公がつい不幸な母子に同情してしまったことから足かせになる所などは、ハードボイルドの定番である。三つの試練は大国主がスサノオに課されるなど神話でよく見られる形式だし、繰り返し現れる象徴的細部(本作では塔)は映画や純文学の決め技だ。
 一方、「僕はここからは見えない鉄塔を感じ、いつまでも降る雨を感じ、それを降らしている巨大な雲と、その下を歩いている自分を意識した。」といった文章は既存のフィクションとあまり似通っていないという点で純文学らしい。しかし、こうした詩的な文章はごく一部に抑えられており、リーダビリティは損なわれていない。中村氏は本作で文学的価値を追求したというよりは、既存の様々なジャンルの技法を駆使して読者を楽しませる作品を書いたように見える。

 新聞広告で版元は、「世界中がこの小説に刮目する」というコピーをつけて、世界文学として優れていることを全面に出している。だが、どちらかと言うと、「カイジに比肩する面白さ」みたいな方向で売りだした方がより多くの読者に届くのではないか。

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