緻密なパズル小説――夕子ちゃんの近道感想
(本稿は、『夕子ちゃんの近道』の抽象的ネタばれを含みます。読解力トレーニングをしたい方は、最初の段落だけ読んで、自分で考えてみることをお勧めします。)
第一回大江健三郎賞受賞作、『夕子ちゃんの近道』(長嶋有著、新潮社/講談社文庫)は緻密なパズル小説だ。パズル小説といっても、ミステリーのように、分かりやすい謎が仕込まれているわけではない。むしろ、さらっと読むと、何てこともない話のようだ。だが、気になった箇所をノートに書き出していくと、じわじわと、隠された構造が浮かび上がってくる。例えば、クライマックスで、主人公は、ずっと不思議に思っていた「海猫の鳴き声」の正体を知った後に、「僕は初めて知ったのに、そのことを前から分かっていた気がした。」と述べる。何故、主人公はそう思ったのだろうか。
大江賞の選評で、大江氏も指摘されていたが、本作の主人公が「自分は二十になっても三十になっても「もう」という感慨を抱いたことがない。」と述べているのは重要だ。「もう」と思わないということは、急いでいない、停止を厭わないということだ。(「もうこんな時間!」と思うのは急いでいる時である。)主人公が、常連客の瑞枝さんに対し、「僕の思考停止の友のつもりだったのだが」と述べていることからも、主人公が、住み込みバイトをしている『フラココ屋』で停止しようとしていたことが分かる。
主人公と対峙しているのが大家さんの孫の夕子ちゃんだ。タイトルにもなっているように、夕子ちゃんは積極的に近道を開拓し、前へ進む。夕子ちゃんをはじめとしたフラココ屋周辺の人々の影響を受けて、主人公はクライマックスで遂に前へと進む。前へと進まなければ、新たな景色を見ることはできない。主人公が海猫の鳴き声の正体を知ったのも、前へ進んだからだろう。では、何故、それを前から分かっていた気がしたのだろうか。
その謎は、最終章で明らかになる。主人公はパリのアパルトマンで、
「そのとき不意に、自分が旅をしていると思った。昨日から旅をしていたのだが、そうではなくて、もっと前、フラココ屋の二階に転がり込んだときから、旅というものがずっとずっと途切れずに続いているように思って、一瞬立ち止まった。」
と述懐する。つまり、主人公はフラココ屋で停止していると思っていたのだが、静かに日常を積み重ねていることもまた、前に進んでいること=旅をしていることなのだと気づいたのだ。「海猫の鳴き声の正体」は前へ進むと明らかになる。主人公はフラココ屋の二階に転がり込んだときから進んでいたから、「海猫の鳴き声の正体」も前から分かっていたのだ。
ご覧のように、本作の謎は解き心地抜群なので、興味を持った方は、他の謎にも挑戦してみることをお勧めする。例えば、最後に主人公が「見下ろすのは二度目なのに、もう見慣れているのが、なんだか不思議だった。」理由は、ここまで読んだ方ならもうお分かりですよね。
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