永遠のキャラクターと腐る細部――ロング・グッドバイ感想


(本稿は『ロング・グッドバイ』序盤のネタバレを含みます。)

 『ロング・グッドバイ』(レイモンド・チャンドラー著、村上春樹訳、早川書房)はキャラクター小説だ。ライトノベルで極端なキャラに慣れた私から見ても、主人公の私立探偵フィリップ・マーロウのキャラクターは立ちまくっている。とにかく、坊っちゃんもびっくりな無鉄砲なのだ。

 マーロウは友人のテリー・レノックスをかばって警察に捕まる。そこでグレゴリアス警部から首がもげそうなパンチをもらったマーロウは、去り際にこう啖呵を切る。
「そのつもりはなかったんだろうが、あんたは結果的に私を助けてくれた。ディトン刑事も手を添えてくれた。私の抱えていたジレンマをあんたがうまい具合に解決してくれたんだ。友だちを裏切ることは誰しも好まないが、私はたとえ親の仇だってあんたの手には引き渡したくないね。あんたは野蛮なだけじゃなく、無能な人間だ。簡単な尋問ひとつまともにできない。私はナイフの刃先に立っているようなものだった。やり方次第でどっちにでも好きに落とせた。ところがあんたは私をいたぶり、コーヒーをかけ、拳で殴った。全くの無抵抗な状態に置かれている人間をな。これから先、壁の時計が何時をさしているかと尋ねられても、教えるつもりはない。」
 その後、メンディー・メネンデスというギャングのボスがマーロウの事務所にやってきて、レノックス事件から手を引けと恫喝する。
「タフな男。俺がここに入ってきて、好き放題振る舞っても手出しひとつできねえ。はした金で雇われて、誰にでも好きにこづき回される。金もなし、家族もなし、将来もなし、なんにもなしのからっけつ情けねえなあ。また会おうぜ、はんちく」
メネンデスが出ていこうとすると、マーロウは立ち上がり、腹にパンチを叩き込む。とにかく一事が万事こんな感じで、今まで生きているのが不思議である。

 マーロウのキャラクターが過剰であるのと同様に、細部の詰め込みっぷりも過剰である。
 村上氏はチャンドラを寄り道の達人と称し、「プロットとはほとんど関係のない寄り道、あるいはやりすぎとも思える文章的修飾、あてのない比喩、比喩のための比喩、なくもがなの能書き、あきれるほど詳細な描写、無用な長口舌、独特の屈折した言い回し、地口のたたきあい、チャンドラーの繰り出すそういうカラフルで過剰な手管に、僕は心を強く惹かれてしまうのだ。」と湛えているが、私は一向に話が進まないのにうんざりした。長さが半分だったらもっと面白かったと思う。

 ここまで書いてきて、私はふと似たような現代小説があることに気がついた。プロットとはほとんど関係のない寄り道や無用な長口舌、独特の屈折した言い回しが多く、主人公のキャラクターがやたらと立っている探偵小説。そう、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(はまち)だ。
 はまちの構造は一冊の序盤で課題が提示され、延々と回り道した挙句、最終的に八幡が課題を解決するというシンプルなものだ。普通、一冊の長編小説では複数の課題が連鎖的に発生する。そうしないと話が持たないからだ。何故はまちが単一の課題だけで長編小説を成立させられるかと言うと、大量に詰め込まれた千葉ネタに代表される本筋とは無関係な細部が面白いからだ。
 そう考えると、ロング・グッドバイの細部も当時の人が読んだら今より格段に面白かったに違いない。同様に、はまちも五十年後に読んだら細部の面白さは随分減ってしまうだろう。

 キャラクターは魅力を減じないが細部は時代と共に傷んでしまう。細部は賞味期限が短いからこそ美味いのだ。

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