変の功罪――独創短編シリーズ2 野崎まど劇場(笑)感想
(本稿は「独創短編シリーズ2 野崎まど劇場(笑)」の抽象的なネタバレを含みます。)
変なものは面白い。漫才でもコントでも落語でも、登場人物はほぼ例外なくどこかしら変である。
野崎まど劇場待望の続編、「独創短編シリーズ2 野崎まど劇場(笑)」(野崎まど著、電撃文庫)は前回をも上回る変な作品ばかりだ。カフェの看板やテレビ画面、QRコードやフォトエッセイ、果ては既刊紹介欄を使ったミステリーなど形式が小説の枠を広げまくりなだけでなく、内容も形式に負けず劣らず変である。
特に「東京ねこさんぽ」と「Cafe Bluetは元気です」の書き手のダメっぷりは秀逸で、読み返す度に笑ってしまう。
だが、最終話の「クウ!」を読んで、変であることは良い面ばかりではないと考えさせられた。「クウ!」は珍妙な作品揃いの本書には珍しくしみじみとした良い話で心温まっていたのだが、ラストでいきなり変な話になり、温まった気持ちの持って行き場がなくなってもやもやした。テーマが深まっているとも言えるので、変な展開になることで作品の価値が下がっているかは微妙ではあるのだが、変な要素を入れたことで損なわれたものがあることは確かだ。
確かに変なものは面白い。だが、我々が変でないものは面白くないのだという風に感じ始めているのだとすると、問題だ。
インターネットは変なものの話題であふれている。アニメでも作品の地味な面白さは話題にならず、三話で先輩が死んだとか作画崩壊したとか例の紐とか分かりやすくキャッチーな話題だけが一気に拡散する。本書の「ワイワイ書籍」「白い虚塔」などはキャッチーさがだけが求められるネット社会への警鐘にも見える。
学ぶことは真似をすることである。野崎まど氏は卓越した真似能力で抽出した既存のものに、独自の変てこなものをぶち込んでパスティーシュやSFに仕立てているが、独自の変てこなものを入れずに普通にしみじみとした長編小説を書けば直木賞が狙えるのではないだろうか。
しみじみとした小説を書ける作家は大勢いるがこういう変な小説を書ける人は他にいないので、比較優位の点では変な小説を書いた方が良いのは分かる。だが、私は伝えたい。野崎氏の小説は変さやSF的大仕掛けがなくても十分に面白いのだと。
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