完全な一人と不完全な他者――ひとつ海のパラスアテナ感想


(本稿は『ひとつ海のパラスアテナ』のネタバレを含みます。)

 『ひとつ海のパラスアテナ』(鳩見すた著、電撃文庫)の白眉は第一章のサバイバルだ。特に主人公のアキが浮島でたった一人で生き延びようとする一章の後半部分は完璧な小説と言って良い。文章に一分の緩みもなく、面白くない部分がまるでない。
 基本的に小説は人と人の関係を描くものだから、孤独なシーンというのは面白くならない。R1グランプリがM1グランプリほど人気がないのは、一人では関係性を表現しにくいからだ。にも関わらず、本作の一人のシーンはものすごく面白い。何故か。それは作者が読者に読者が知らない情報を高密度で伝え続けているからだ。情報とは「魚類は脊髄周辺にほどほどに淡水化した水分を蓄えている。」といったサバイバルうんちくだけではない。浮島の情景やアキの行動や心の動きに関する解像度が高く、まるで目の前に島があるかのように鮮明なのだ。さらに、生きるか死ぬかという緊張感で全体を引き締め、時間経過の緩急で彩をつけている。脱帽するしかない。

 一方、二章になると急にのんびりした話になる。真剣で斬り合っていた剣客が竹刀で戦っているような感じだ。東池袋ストレイキャッツ感想でも書いたのだが、最初が竹刀でクライマックスで真剣なら良いのだが逆だと物足りない印象を受ける。一章のサバイバルを最後に持ってくれば、ネットでの評価ももっと高くなったのではないだろうか。
 だが、この構成は孤独なアキが他者と出会うというテーマそのものと結びついているので、おいそれと変えることは出来ないのも事実だ。

 小説において登場人物が一人しかいない時、作者は作品世界で起こる全ての物事を一部の漏れもなく伝えることができる。登場人物が二人になると、視点人物じゃない方の人物の心の動きが影になり、間接的にしか描くことができない。神の視点を採用すれば二人の心を直接描くことも可能だが、そうすると語っているのは誰やねんということになり、読者が感情移入できなくなる。小説において世界の全てを完璧に描こうと思ったら、登場人物を一人にするしかない。

 本書の第一章は世界に主人公アキしか存在せず、アキが把握している世界が余すところなく描かれる。(カエルのキーちゃんは一見他者だが、アキの前でしか話しておらず、アキのイマジナリーフレンドであると解釈できる。少なくとも通常の意味での他者ではない。)小説として完璧であるだけでなく、アキにとっても全ての自分の行動を自らの意思のみで決めることができる、ある意味最高に自由な環境だ。
 だが、作者はアキを他者に出会わせ、不自由な枷をはめた。それは人が生きていくのに他者という枷を必要としているからだ。だから、第二章以降の文章が第一章のように完璧ではなくても、それは人間が必要としている不完全さなのだ。

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