「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」の三つの解釈――コードギアス反逆のルルーシュR2感想




 コードギアス反逆のルルーシュR2の最終回は見事だった。特に、「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」という言葉が利いている。この言葉は三通りに解釈することが出来る。
 当初、ルルーシュはこの言葉を、自らが決断主義的に暴力を用いることを正当化するために用いていた。「俺は暴力を振るわれる覚悟を持っている。だから暴力を振るっても良いのだ」という風に。これが第一の解釈だ。だが、みながこのような立場で暴力を振るい始めたら、万人の万人に対する闘争状態になってしまう。実際、ルルーシュのせいで死んだ人間は数知れない。私はルルーシュのことが嫌いだった。

 だが、R2になってルルーシュは変わり始めた。単なる駒だったはずの黒の騎士団を見捨てられず、ゼロとして彼らを率いた責任を取ろうとする。当初は「ナナリーが安心して暮らせる場所を作る」「母の敵討ち」という私的な動機のみで動いていたのが、徐々に周囲の人たちのことや社会のあり方、そしてついには世界全体のことを考えるようになる。
 最終回で再び語られた「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」という言葉。「ゼロレクイエム」の首謀者がルルーシュであることを勘案してもっと普遍化すると、「自らの利益を度外視して振舞える奴のみが、決断主義的に振舞うことを許される」と言い換えられる。これが第二の解釈だ。これは厳しい条件であり、決断主義の一つの歯止めとして十分に機能し得る。
 なぜなら、決断主義的に振舞う人はたいていが、単に自らの利益や欲求のために行動しているからだ。

 一方、「ゼロレクイエム」の首謀者がスザクであると解釈するならば、「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」は違った面を覗かせる。内田樹氏は日教組の”影響”と言論の自由について で
「私の間違いをあなたの正しさによって補正し、あなたの間違いを私の正しさによって補正してはどうだろうか」というのが「言論の自由」が要求するもっとも基本的な「ことばづかい」である
 と主張している。この言葉こそ、「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」の第三の解釈だ。

 最後にC.C.は「ギアスという名の王の力は人を孤独にする、少しだけ違っていたか」とつぶやいている。ルルーシュが第二の解釈によって「ゼロレクイエム」を行ったのなら、ルルーシュは孤独になってしまう。だとすると、第三の解釈こそが、制作者が真に伝えたかったメッセージなのではないだろうか。


PS.「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」に関しては、【 コードギアス 】 「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」というのは、アニメのルールを守るという宣言 も興味深い。



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