何故友達だと認めないのか――僕は友達が少ない7感想




 (本稿は僕は友達が少ない7感想のあからさまなネタばれを含みます。)
 平坂読氏はライトノベル的リアリティの申し子であり破壊者でもある。こてこてのライトノベル的リアリティで展開した話に、突然現実的リアリティをぶち込んで、ライトノベル的リアリティを揺さぶる。
 『僕は友達が少ない』(MF文庫J)5巻において「男の娘」というライトノベル的幻想を打ち砕いた平坂氏が、7巻では「鈍感主人公」というお約束を破壊した。『東雲侑子は短編小説をあいしている感想』で書いたように、鈍感主人公はヒロインの言動には敏感なのに、その意味するところには鈍感という矛盾をはらんでいる。ことに、一人称小説でヒロインが小声で言ったことを小さな活字ながら一言一句逃さず聞き取っているにも関わらず、主人公が「え? なんだって?」とか言っているのは明らかにおかしい。志熊理科が「――『なんだって?』じゃねえよ、ばーか……」と指摘するのももっともだ。

 しかし、それとは別に、7巻で私がひっかかった点がある。7巻は、ラストシーンで理科が決定的な台詞を口にするのだが、それが風によって消されてしまうというリドルストーリー(結末を明かさない小説)風の構成になっている。私はこれを読んで風に消えた言葉は「だって理科たちは小鷹先輩のことが好きなんですよ」だと思ったのだが、別の場所に書いてあった正解は「だって理科たちは、もう友達じゃないですか」だったので首を捻った。いまさら何を言っているんだ。お前たちはもはや友達なんて段階を通り越してハーレムじゃないか。
 この台詞を言おうとした理科に対し、主人公小鷹はモノローグでこう述べる。
 
 それを言葉にしてしまったら、俺は、俺たちはもう……進むしかなくなる。
 進むというのは、変化するということだ。
 それは、とても怖いことなんだ。
 光に照らされた温かい部屋から、何も見えない真っ暗闇の世界に足を踏み出すような、本当に恐ろしいことなんだ。
 俺だけじゃない。
 きっと夜空にとっても、星奈にとっても、幸村にとっても、理科にとっても、
 隣人部の存在そのものを揺るがす、決定的な変化を引き起こしてしまう。
 十年前の思い出だとか、婚約の話だとか、そんな些細な問題とは比べものにならないほどに――決定的な変化を。

 隣人部の全員が小鷹に恋愛感情を抱いていることを認めたら進むしかなくなるのは分かる。小鷹が一人を選ばなくてはならないからだ。だが、隣人部の全員が友達だと認めるとどういう不都合があるのだろうか。
 「――寂しがりやのくせに、他人に率直な好意を向けられるのは怖い」
という理科の小鷹評や、
 「悲しい思いをするくらいなら、こうして適度にじゃれ合っているほうがいい。深い絆なんていらない。」
という夜空の述懐から小鷹の想いは想像がつく。きっと小鷹は友達だと認めた後に、その関係を失うのが怖いのだ。だが、友達だと認めると、どこに進むしかなくなるのかが分からない。友達を作れることが分かったら、部員が隣人部から出て外の友達を作るようになるのを恐れている? だがそれは可能性であって、必然ではない。「進むしかなくなる」という言い方にはそぐわない。

 どうも小鷹は友情と恋愛を切り分けずに絆として捉えているようだ。最近のゆりブームを見ると、そういう考えがおたくの間に広まっているのかも知れない。だが、私は友情と恋愛は重なる部分はあるにしろ別物だと思うので、小鷹の考えが理解できない。



僕は友達が少ない感想
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