モノローグと千葉とまちがっている――やはり俺の青春ラブコメはまちがっている感想




(本稿では『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』の内容に触れています。)

 『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』(以下はまち)(渡航著、ガガガ文庫)について、三つの観点から論じたい。

 はまち第一の特徴は、モノローグの面白さだろう。電車内で読んでいて、笑いがこらえきれなかった箇所は数えきれない。はまちはよく友達少ない小説の先行作である、『僕は友達が少ない』(以下はがない)と比較される。両作品は似ている箇所も多いのだが、面白い部分がだいぶ異なる。エピソードが面白いはがないに対し、はまちはモノローグが面白い。はがないの面白エピソードは、部員同士のからみで生じているのに対し、はまちは主人公比企谷八幡が一人で語っているだけで面白い。より正しく(一人)ぼっち小説なのははまちだと言えよう。

 はまち第二の特徴は千葉小説であるということだ。千葉市が舞台の小説としては、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』や『ニューロマンサー』があるが、どちらも千葉描写は薄く、他の街でも成立しそうだ。その点、はまちは千葉ネタを全面に押し出しており、千葉市民として大変うれしい。千葉音頭ネタなんて、千葉の人しか面白くないんじゃ、と不安になるくらいだ。
 大変不本意だが、千葉は物語の舞台になりにくい。城下町ではなかったので歴史がなく、東京のベッドタウンとして戦後に移り住んだ人が多いのでコミュニティも薄い。地形的に起伏がないし、おしゃれなイメージもない。東京や京都や長崎や鎌倉や尾道なんかと比べて、どうも千葉が舞台の物語が少ないのは、その辺に原因があるのだろう。伊坂幸太郎氏なんて、千葉県出身なのに、杜の都仙台に腰をすえて、千葉の小説は全然書いてくれないし。
 はまちは千葉のコミュニティの薄さを逆手に取って、ぼっち小説の舞台として活かすことに成功している。やはり、どんな街にもその街なりの物語が存在するのだ。

 はまち第三の特徴として、まちがっていることを挙げたい。八幡は冒頭の作文では自分が正義だと断じ、「リア充爆発しろ。」と結論づけていた。しかし巻末の作文では「青春を謳歌せし者たちの日々を否定することではない」と述べ、結論も「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」に変わっている。八幡も頑固に我が道を行っているようで、違ったものを尊重し、自らのまちがいを認められるまでに成長したのだ。
 だが、「高校一年という青春の日々を決して否定しない」と述べていることから分かるように、ここで八幡が述べている「まちがっている」は自らを否定しているのではない。「間違い探し」の間違いのように、「俺の青春ラブコメ」が「普通の青春ラブコメ」とは違っている、ということを客観的に指摘しているに過ぎない。
 八幡のような非社交的な人間が「普通の青春ラブコメ」=ハーレムラブコメのような高校生活を送るなんてことはありえず、「俺の青春ラブコメ」=一人ぼっちのままのラブコメを送るのが自然だ。従って、リアリティの観点からは、「俺の青春ラブコメ」こそが正しいのだ。

 最近のライトノベルのハーレムラブコメ化圧力は凄まじいものがある。はまちはライトノベルの青春ラブコメ化圧力に抗し、まちがい続けられるかの戦いを書いた作品とも言える。
 三巻まで読んだ限りでは、はまちも圧力に抗しきれず、必死に撤退戦を戦っている状況だ。もし雪乃が八幡のことを好きになったら、はまちも普通の正しい青春ラブコメになってしまう。何とかメインヒロインが主人公を好きではないという一線は死守してほしいものだ。 



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