想像力と好奇心――東京スピリット・イエーガー感想



 『東京スピリット・イエーガー 異世界の幻獣、覚醒の狩人』(大泉貴著、このライトノベルがすごい!文庫)読了。大泉氏の過去三作に対し私が感じた面白さの順は「アニソンの神様>東京スピリット・イエーガー>ライジーン×コード」となる。だがこれは作品の出来とは関係ない。作品内における想像力を必要とする描写の量に反比例している。

 小説は映画や漫画といった視覚メディアに比べて読むのに想像力が必要なメディアだ。会話やモノローグはそのまま文字で把握すれば良いが描写を理解するにはある程度脳内で映像に変換する必要がある。描写の変換の難易度にも強弱があり、誰もが知っている日常的な描写――人間とか家とか空とか学校とか、は変換が楽であり、場合によっては映像に変換しなくても読み進めることができる。一方、誰も見たことのない独特なものとの戦闘描写となると、最低でも特殊なものの大まかな様子と戦う両者の位置関係くらいは思い浮かべないと描写が理解できなくなる。そして私はこの画像変換作業がとにかく苦手なのだ。夢を見る時でもはっきりとした映像が頭に浮かばない程だ。
 頭をパソコンに例えるなら、私の頭にはグラフィックボードが入っていないのだろう。従って、小説において込み入った戦闘描写が始まると私の脳内のCPUが過負荷に陥って軽快に読み進められなくなり、最悪読み飛ばしてしまうことになるのだ。

 一方、「誰も見たことのない独特なもの」を登場させることにはメリットもある。読者の新しいものに触れたいという好奇心を満たすことができるのだ。従ってこれは読者の側の能力バランスの問題なのだ。想像力の負荷を好奇心が上回ればその描写を楽しく感じ、下回れば読みにくく感じるということだ。画像変換の得意な人は、描写されたものを想像するのを負荷とは捉えずむしろ楽しいと思っているのではないか。読者の能力によって小説の捉え方はがらりと変わるのだ。

 森博嗣氏が指摘していたことだが、作家には映像を思い浮かべて書いている人と思い浮かべない人がいるらしい。恐らく大泉氏は頭にハイスペックなグラフィックボードを持っているのだろう。作家志望として羨ましい。

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